天智天皇(二十四)耽羅の貢・高麗の男生が大唐へ

MENU
TOP>天智天皇(日本書紀)>天智天皇(二十四)耽羅の貢・高麗の男生が大唐へ
スポンサードリンク

天智天皇(二十四)耽羅の貢・高麗の男生が大唐へ

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

原文

秋七月己未朔己巳、耽羅遣佐平椽磨等貢獻。八月、皇太子幸倭京。冬十月。高麗大兄男生、出城巡国。於是、城內二弟、聞側助士大夫之惡言、拒而勿入。由是、男生、奔入大唐、謀滅其国。

現代語訳

(即位6年)秋7月11日。耽羅(タムラ=済州島)の佐平(サヘイ)の椽磨(デンマ)たちを派遣して、貢(ミツキ)を献上しました。
8月。皇太子は倭(ヤマト)の京(ミヤコ)に行きました。
冬10月。高麗の大兄(ダイケイ=長男)の男生(ナンショウ)は城を出て国を巡りました。そこで城内の二人の弟は側近の士大夫(ヒトドモ)の悪意のある言葉を聞いて、男生が入るのを防いでしまい、入れなくしました。それで男生は奔走して大唐(モロコシ)に入って、その国(=ここでは高麗のこと)を滅ぼうそうと計りました。
スポンサードリンク

解説

耽羅
耽羅とは済州島のこと。済州島が日本に献上品を持ってくるのは、新羅が怖かったから、というのがよくある説なんですが、私は、日本の政策が転換したからだと思います。そもそも、日本が朝鮮半島に進出したのは、九州南部への進出に失敗したからです。九州南部の隼人を帰属させて、鹿児島→沖縄→台湾→東南アジアという交易ルートを欲していた。それができないので諦めて朝鮮半島から、中国と東北異民族のルートを確保した。そこである程度の利益が上がってくると、新羅が反旗を翻し、唐の属国となって、朝鮮半島の統一を図るようになります。それで、新羅と日本の関係が希薄になった。そこで済州島から東北異民族という交易ルートを開拓したんじゃないかと思うのです。
8月皇太子が倭へ
これ、なんなんでしょうか?わざわざ書く以上は意味があると思うんですけど。
高麗の大兄の男生
男生は高麗の蓋金の長男で、父親である蓋金が死ぬ時に「兄弟で仲良くしろよ」と忠告されているのですが、その杞憂のままの結果を迎えることになります。つまり高麗の滅亡です。まぁ、兄弟の諍いなんてどこの国でもあることなんですよね。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

SNSボタン

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

ページ一覧

スポンサードリンク

管理人リンク

編集