天智天皇(二十五)劉仁願の使者・高安城と屋嶋城と金田城を築く

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天智天皇(二十五)劉仁願の使者・高安城と屋嶋城と金田城を築く

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原文

十一月丁巳朔乙丑、百濟鎭將劉仁願、遣熊津都督府熊山縣令上柱国司馬法聰等、送大山下境部連石積等於筑紫都督府。己巳、司馬法聰等罷歸。以小山下伊吉連博德・大乙下笠臣諸石、爲送使。是月、築倭国高安城・讚吉国山田郡屋嶋城・對馬国金田城。潤十一月丁亥朔丁酉、以錦十四匹・纈十九匹・緋廿四匹・紺布廿四端・桃染布五十八端・斧廿六・釤六十四・刀子六十二枚、賜椽磨等。

現代語訳

(即位6年)11月9日。百済の鎮将(チンショウ=占領軍の将軍)の劉仁願(リュウジンガン)は熊津都督府熊山県令上柱国の司馬(シバ=軍の位の名前)の法聡(ホウソウ)たちを派遣して、大山下の境部連石積(サカイベノムラジイワツミ)たちを筑紫都督府(ツクシノオオミコトモチノツカサ)に送りました。
11月13日。司馬法聡が帰りました。
小山下の伊吉連博徳(イキノムラジハカトコ)・大乙下の笠臣諸石(カサノオミモロイワ)を送迎の使者としました。
この月に倭国の高安城(タカヤスノキ=奈良県生駒郡と大阪府八尾市の境に遺構がある)、讚吉国(サヌキノクニ)の山田郡に屋嶋城(ヤシマノキ=香川県高松市屋島)・対馬国に金田城(カナタノキ)を築きました。
閏11月11日。錦十四匹・纈(ユハタ=絞り染の絹)十九匹・緋(アケ)二十四匹・紺布(ハナダノヌノ)二十四端・桃染布(ツキソメノヌノ)五十八端・斧二十六・釤(ナタ)六十四・刀子(カタナ)六十二枚を椽磨(デンマ)たちに与えました。
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解説

百済を占領する唐の将軍から使者が来て、それを送迎して、やりとりは続いています。このやりとりが「戦争が始まる予兆」なのかどうかは何とも。

しかし唐が日本を征伐する気ならば、やりとりをする意味があるとは思えない。日本はその一方で、城を築いています。これを唐の征伐対策とするのが定説ですが、私はちょっと疑っています。
私は、城を築いたのは儒教的国家運営の中の一つだったんじゃないかと思うのです。日本も儒教的な最新鋭の思想を体現して国家運営しているのだ。そういう立派な国家なんだぜ!と日本にやってきた商人や使者に見せるためじゃないかと。何せ、日本の都には城壁もないし、ノンベンダラリとした田舎の風景が広がるばかり。丁度、百済から亡命者がやってきて城の技術が入っていたから、作ったのではないかな?と。
椽磨
椽磨は耽羅(タムラ)…つまり済州島のことです。済州島と関係を深めています。その割にや与えるモノが「兵器」よりは、布や斧やナタや小さな刀なので、戦争対策のために、済州島を味方につけようとしている、ってことではないような。
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