天智天皇(二十八)百済の末都師父の派遣・蒲生野の猟・伊勢王の死

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天智天皇(二十八)百済の末都師父の派遣・蒲生野の猟・伊勢王の死

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現代語訳

(即位7年)夏4月6日。百済は末都師父(マツシブ)などを派遣して、調(ミツキ)を献上しました。
4月16日。末都師父は帰りました。

5月5日。天皇は蒲生野(カマフノ=滋賀県蒲生郡付近)で猟(カリ)をしました。その時、大皇弟(ヒツギノミコ=大海人皇子=天武天皇)・諸王(オオキミタチ)・内臣(ウチツマヘツキミ)と群臣(マヘツキミタチ)が皆、全員、お伴として従いました。

6月。伊勢王(イセノオオキミ)とその弟王とで、1日違いで亡くなりました。
未だに官位の詳細が分かりません。
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解説

百済?
百済は滅亡したはず。なのにここに名前が出るのは妙。だから日本書紀は嘘ばっかり、と考えるのはおかしい。というのも、百済が滅亡したということは日本書紀にデカデカと書いてあるわけです。これが矛盾していることは、誰でも分かる。ならば、この記述が「矛盾していない」というのが、編纂時では「当然」だったんでしょう。

百済は現在、唐の占領軍が駐留しています。国家としての百済は滅亡しましたが、百済という地名としては残っていたんでしょう。そして、百済という国家は消えても、ザックリとした運営方法は、前の百済の運営を踏襲したんじゃないかと思います。

私はそもそも、日本と唐の関係は「悪くない」ものだったんじゃないかと思います。
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原文

夏四月乙卯朔庚申、百濟遣末都師父等進調。庚午、末都師父等罷歸。五月五日、天皇縱獵於蒲生野。于時、大皇弟・諸王・內臣及群臣、皆悉從焉。六月、伊勢王與其弟王、接日而薨。未詳官位。
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