天智天皇(三十五)藤原の姓を賜う・鎌足の死

MENU
TOP>天智天皇(日本書紀)>天智天皇(三十五)藤原の姓を賜う・鎌足の死
スポンサードリンク

天智天皇(三十五)藤原の姓を賜う・鎌足の死

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

原文

冬十月丙午朔乙卯、天皇、幸藤原內大臣家、親問所患、而憂悴極甚、乃詔曰「天道輔仁、何乃虛說。積善餘慶、猶是无徵。若有所須、便可以聞。」對曰「臣既不敏、當復何言。但其葬事、宜用輕易。生則無務於軍国、死則何敢重難」云々。時賢聞而歎曰「此之一言、竊比於往哲之善言矣。大樹將軍之辭賞、詎可同年而語哉。」

庚申、天皇、遣東宮大皇弟於藤原內大臣家、授大織冠與大臣位、仍賜姓爲藤原氏。自此以後、通曰藤原內大臣。辛酉、藤原內大臣薨。(日本世記曰「內大臣、春秋五十薨于私第、遷殯於山南。天、何不淑不憖遺耆、鳴呼哀哉。」碑曰「春秋五十有六而薨。」)
甲子、天皇、幸藤原內大臣家、命大錦上蘇我赤兄臣奉宣恩詔、仍賜金香鑪。
スポンサードリンク

現代語訳

(即位8年)冬10月10日。天皇は藤原内大臣の家に行き、自ら病状を問いました。しかし、憂いて、憔悴している様子は極めてひどいものでした。天智天皇は詔(ミコトノリ)して言いました。
「天道(アメノミチ)が仁(メグミ)を助けるものなどというのは、虚説(イツワリコト)だろう。善を積んで、慶(ヨロコビ)があるが、しかし、その兆候が無い。もし、やるべきコトがあるならば、すぐに聞こうじゃないか」
答えて言いました。
「臣(ヤツカレ=自分を卑下した言い方)は愚かです。これ以上、何を言うというのでしょうか。その葬事(ノチノワザ=死後の葬儀)は軽易(オロソカ)なものでお願いします。生きている間は軍国(オオヤケ)の仕事はありませんでした。死んでどうして、重ねて国に難を残せましょうか」
云々。その時代の賢い人はそれを聞いて褒めて言いました。
「この一言は、昔の賢いひとの名言に比類するものでしょう。大樹将軍(ダイジュショウグン)が賞を辞したのと、いずれ、同じにして語るべきでしょう」

10月15日。天皇は東宮大皇弟(ヒツギノミコ=大海人皇子=のちの天武天皇)を藤原内大臣の家に派遣して、大織冠(ダイシキノカウブリ)と大臣の位を授けました。それで姓(ウジ)を与えて、藤原氏(フジワラノウジ)としました。これから以後、通称として、藤原内大臣と言うようになりました。

10月16日。藤原内大臣は亡くなりました。
日本世記によると…
「内大臣は春秋(トシ)50で自分の家で亡くなりました。遺体を移して山の南で殯(モガリ)しました。天はどうして、老人である鎌足を残さなかったのでしょうか。あぁ! 悲しいなぁ!
碑によると春秋(トシ)50と6で亡くなったそうです。

10月19日。天皇は藤原内大臣の家に行きました。大錦上の蘇我赤兄臣(ソガノアカエノオミ)に銘じて、恩詔(メグミノミコトノリ)を述べさせました。金の香炉を与えました。
スポンサードリンク

解説

葬式は質素に
葬式を質素にするように遺言を残すのは、割とよくある「いい話」の代表例です。中国や朝鮮の儒教国では歴史書というのは、実質、過去の偉人の「いい話集」みたいなところがあります。つまり、そういう「粉飾」があるということで、この藤原鎌足の遺言もどこまでが史実かは怪しいよってことです。無論、史実の可能性もあります。

石碑があったらしいです。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

SNSボタン

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

ページ一覧

管理人リンク

編集