天智天皇(四十三)田儛・水牛1頭と山鶏1隻を献上・李守真の帰国

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天智天皇(四十三)田儛・水牛1頭と山鶏1隻を献上・李守真の帰国

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原文

五月丁酉朔辛丑、天皇御西小殿、皇太子・群臣侍宴。於是、再奏田儛。六月丙寅朔己巳、宣百濟三部使人所請軍事。庚辰、百濟遣羿眞子等進調。是月、以栗隈王爲筑紫率。新羅、遣使進調、別獻水牛一頭・山鶏一隻。秋七月丙申朔丙午、唐人李守眞等・百濟使人等、並罷歸。

現代語訳

(即位10年)5月5日。天皇は西の小殿(コアンドノ)に居ました。皇太子(ヒツギノミコ=?)と群臣(マヘツキミタチ)は宴会をしていました。ここで田儛(タマイ=田を耕すときに踊る舞)を再び、踊りました。

6月4日。百済の三部(ミタムラ)の使者が請願して軍事の事を述べました。
6月15日。百済は羿真子(ゲイシンシ)たちを派遣して調(ミツキ=税)を献上しました。
この月に、栗隈王(クルクマノオオキミ)を筑紫率(ツクシノカミ)としました。新羅は使者を派遣して調(ミツキ=税)を献上しました。別に水牛1頭・山鶏(ヤマドリ)1隻を献上しました。
秋7月11日。唐人の李守真(リシュシン)たちと百済の使者たちは一緒に帰りました。
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性格・能力

李守真
李守真は天智天皇即位10年1月に来日しています。それが即位10年7月に帰国ですから半年の滞在ということになります。

李守真は唐人ですが、唐から派遣されたのではなくて、百済の占領軍からの派遣です。まぁ、どっちでもいいことですけど。この記事を読む限り、百済の使者と、百済の占領軍は、別々の使者を送っていることになり、そこに日本人も唐人も百済人も、日本書記編纂者も疑問を持っていないということになります。

ということは占領軍と百済地域の運営者は「別」ってことです。別ってどういうことなのかって言うと、占領しているだけで、国家運営はしてないってことじゃないかな?と。だから百済は占領軍とは無関係に日本と通商した。まぁ単にビジネスの付き合いですよね。占領軍も別にそこは問題にしなかった。それに唐としては高句麗(高麗)さえ、滅ぼしてしまえば、あとはどうでも良かったんじゃないかと思います。
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