天武天皇(十一)朝明郡の迹太川・不破道を塞ぐ・桑名郡家で宿泊

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天武天皇(十一)朝明郡の迹太川・不破道を塞ぐ・桑名郡家で宿泊

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現代語訳

(即位元年)6月26日。朝。朝明郡(アサケノコオリ)の迹太川(トオカワ=三重県三重郡の朝明川)の辺で、天照太神(アマテラスオオミカミ)を望拝(タヨセニオガミ)しました。この時に益人(マスヒト=路直益人)が到着して、申し上げて言いました。
「関に任じている者は、山部王(ヤマベノオオキミ)・石川王(イシカワノオオキミ)ではではありませんでした。大津皇子(オオツノミコ=天武天皇の子)でした」
すぐに益人に従って、参り来ました。
大分君恵尺(オオキダノキミエサカ)・難波吉士三綱(ナニワノキシミツナ)・駒田勝忍人(コマダノスグリオシヒト)・山辺君安麻呂(ヤマノヘノキミヤスマロ)・小墾田猪手(オハリダノイテ)・泥部眡枳(ハズカシベノシキ)・大分君稚臣(オオキダノキミワカミ)・根連金身(ネノムラジカネミ)・漆部友背(ヌリベノトモセ)の輩(トモガラ=仲間)が従いました。
天皇はとても喜びました。郡家(コオリノミヤケ=朝明郡家=現在の三重県三重郡朝日町縄生?)に到着する時に、男依(オヨリ=村国連男依)は駅(ハイマ=駅の早馬)に乗って来て、申し上げて言いました。
「美濃の師(イクサ=兵士)3000人を起こして、不破道を塞ぐことができました」
天皇は、雄依(オヨリ)が大事を務めたことを褒めて、郡家に到着して、先に高市皇子(タケチノミコ=天武天皇の子)を派遣して、軍事を監査させました。山背部小田(ヤマシロベノオダ)・安斗連阿加布(アトノムラジアカフ)を派遣して、東海の軍隊を起こしました。又、稚桜部臣五百瀬(ワカサクラベノオミイオセ)・土師連馬手(ハジノムラジウマテ)を派遣して、東山の軍を起こしました。この日に、天皇は桑名郡家(クワナノコオリノミヤケ)に宿をとりました。そこで留まり、進みませんでした。
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解説

天照太神
天照「太」神となっています。どうして太いにしたんでしょうか。「大」より「太」の方が縁起がいいとか?
ところで「天照」という言葉自体が、非常に久しぶり。このページより前に日本書紀に「天照」という言葉が出るのは神功皇后のところまでさかのぼることになります。
これが「天照信仰は天武天皇の辺りで出来た」とされる理由です。
大津皇子と高市皇子
二人共が天武天皇の子。
高市皇子が長男。大津皇子は天武天皇が即位し、亡くなった後、自殺に追い込まれます。
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原文

丙戌旦、於朝明郡迹太川邊、望拜天照大神。是時、益人到之奏曰「所置關者、非山部王・石川王、是大津皇子也。」便隨益人參來矣。大分君惠尺・難波吉士三綱・駒田勝忍人・山邊君安麻呂・小墾田猪手・泥部眡枳・大分君稚臣・根連金身・漆部友背之輩從之、天皇大喜。將及郡家、男依乘驛來奏曰「發美濃師三千人、得塞不破道。」於是、天皇、美雄依之務。既到郡家、先遣高市皇子於不破令監軍事、遣山背部小田・安斗連阿加布發東海軍、又遣稚櫻部臣五百瀬・土師連馬手發東山軍。是日、天皇、宿于桑名郡家、卽停以不進。
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