天武天皇(十二)近江朝廷の対応

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天武天皇(十二)近江朝廷の対応

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原文

是時近江朝、聞大皇弟入東国、其群臣悉愕京內震動、或遁欲入東国、或退將匿山澤。爰大友皇子謂群臣曰、將何計。一臣進曰「遲謀、將後。不如急聚驍騎乘跡而逐之。」皇子不從。則以韋那公磐鍬・書直藥・忍坂直大摩侶遣于東国、以穗積臣百足・弟五百枝・物部首日向遣于倭京、且遣佐伯連男於筑紫、遣樟使主盤磐手於吉備国並悉令興兵。仍謂男與磐手、曰「其筑紫大宰栗隅王與吉備国守當摩公廣嶋二人、元有隸大皇弟、疑有反歟。若有不服色、卽殺之。」

現代語訳

この時、近江朝廷では大皇弟(マウケノキミ=大海人皇子)が東国に入ったと聞いて、その群臣(マヘツキミタチ)は皆、驚いて、京中は震え騒ぎました。あるいは逃げて東国に入ろうとする者もいました。あるいは引退して、山の中に隠れようとしました。大友皇子(=天智天皇の子)は群臣に語って言いました。
「どうするべきだろうか」
一人の臣が前に進んで言いました。
「遅く対処すれば、後手になるでしょう。ですから、速やかに騎馬を集めて、それに乗って、跡を追い、攻めれば…」
皇子は従いませんでした。韋那公磐鍬(イナノキミイワスキ)・書直薬(フミノアタイクスリ)・忍坂直大摩侶(オシサカノアタイオオマロ)を東国に派遣しました。穗積臣百足(ホズミノオミモモタリ)・弟の五百枝(イホエ)・物部首日向(モノノベノオビトヒムカ)を倭の京(ミヤコ)に派遣しました。また、佐伯連男(サエキノムラジオトコ)を筑紫に派遣しました。樟使主盤磐手(クスノオミイワテ)を吉備国に派遣して、ある限りの兵を起こしました。男(=佐伯連男)と磐手(=樟使主盤磐手)に語って言いました。
「筑紫の太宰の栗隅王(クルクマノオオキミ)と、吉備国守(キビノクニノカミ)の当摩公広嶋(タギマノキミヒロシマ)の二人は、元から大皇弟(マウケノキミ=大海人皇子)に隷していたことがある。反く疑うことが有るのではないか。もしも従わない色があれば、すぐに殺してしまえ」
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解説

東国へ
東国へ大海人皇子が移動すると、続々と臣下が集まってきます。最初は舎人だけだったのですから、この時点では「軽く」見ていても仕方がありません。もちろん、大友皇子と大海人皇子は甥と叔父の関係ですから、できれば戦争は避けたい、そんな気持ちもあったのかもしれません。

大友皇子は臣下の一人の忠告を無視し、兵を追わせることはしませんでした。その代わりに、東国に使者を送りました。おそらくは大海人皇子に加勢しないように釘を刺そうとしたのでしょう。

そして副都でもある倭国を抑え、次に筑紫と吉備を抑えようとしました。吉備は伝統的に軍や兵士の補給地とされます。筑紫は要衝です。筑紫の太宰府は実質、西国における「中心地」です。この二つを抑えることは近江朝廷にとって大事です。仮に東国を大海人皇子が抑えても、吉備と筑紫が近江に着けば、少なくとも負けることはないという判断があったんじゃないかと思います。
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