天武天皇(十九)近江は軍を犬上へ・山部王は蘇我果安と巨勢臣比等に殺される

MENU
TOP>天武天皇(日本書紀28)>天武天皇(十九)近江は軍を犬上へ・山部王は蘇我果安と巨勢臣比等に殺される

天武天皇(十九)近江は軍を犬上へ・山部王は蘇我果安と巨勢臣比等に殺される

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

現代語訳

その時、近江朝廷は、山部王(ヤマベノオオキミ)・蘇賀臣果安(ソガノオミハタヤス=蘇我果安)・巨勢臣比等(コセノオミヒト=巨勢人)に命じて、数万の衆(イクサ)を率いて、不破を襲おうとして、犬上川(イヌカミノカワ=琵琶湖に注ぐ川)の浜に軍を進めました。山部王は、蘇賀臣果安(=蘇我果安)・巨勢臣比等に殺されました。この乱によって軍は進みませんでした。
蘇賀臣果安は犬上から引き返して、首を刺して自殺しました。この時、近江の将軍の羽田公矢国(ハタノキミヤクニ)と、その子の大人(ウシ=人名)たちは、自分の一族を率いて、降伏しました。斧鉞(オノマサカリ=将軍位を表すアイテム)を授けて、将軍に任命しました。すぐに北越に入らせました。これより以前に、近江は精鋭の兵を放ち、たちまち玉倉部邑(タマクラベノムラ=滋賀県坂田郡米原町醒井?)を突きました。すぐに出雲臣狛(イズモノオミコマ)を派遣して、迎撃し、追わせました。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

解説

蘇我果安・巨勢人臣は天智天皇が存命の時の即位10年の時に、大友皇子を擁立し、天皇にすることを神仏に誓っています。

そして山部王は系譜はよく分かりませんが、ともかく皇族です。山部王は本来は鈴鹿関に居るハズでした。

その時、鈴鹿関の記述を読むと
この夜中に鈴鹿関司(スズカノセキノツカサ)が使者を派遣して申し上げて言いました。
「山部王・石川王は一緒に来ました。それで関に居らせています」
天皇はすぐに路直益人(ミチノアタイマスヒト)を使いに出して呼び寄せました。

6月26日。朝。朝明郡(アサケノコオリ)の迹太川(トオカワ=三重県三重郡の朝明川)の辺で、天照太神(アマテラスオオミカミ)を望拝(タヨセニオガミ)しました。この時に益人(マスヒト=路直益人)が到着して、申し上げて言いました。
「関に任じている者は、山部王(ヤマベノオオキミ)・石川王(イシカワノオオキミ)ではではありませんでした。大津皇子(オオツノミコ=天武天皇の子)でした」
すぐに益人に従って、参り来ました。

山部王は大海人皇子と通じていたのかもしれません。その山部王が近江王朝の中で軍隊を率いていた。つまり大海人皇子側のスパイが、大友皇子側の軍事のトップに任命されていたってことです。そして神仏に大友皇子を擁立すると誓約した二人(蘇我果安・巨勢人臣)に山部王は殺された。

つまり山部王の裏切りに気がついた二人が、山部王を殺した、ということです。殺した理由が日本書紀には書かれていません。明確にしなかったのは、「鈴鹿に山部王が居ることになってた」って書いているんだから、言うまでもないことだった、からでしょうね。
スポンサードリンク

原文

時、近江命山部王・蘇賀臣果安・巨勢臣比等、率數萬衆將襲不破而軍于犬上川濱。山部王、爲蘇賀臣果安・巨勢臣比等見殺。由是亂以軍不進。乃蘇賀臣果安、自犬上返、刺頸而死。是時、近江將軍羽田公矢国・其子大人等、率己族來降。因授斧鉞拜將軍、卽北入越。先是、近江放精兵、忽衝玉倉部邑。則遣出雲臣狛、擊追之。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

SNSボタン

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

ページ一覧

編集