天武天皇(二十五)7月1日に戻る・坂本臣財たちの奮戦

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天武天皇(二十五)7月1日に戻る・坂本臣財たちの奮戦

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原文

初、將軍吹負向乃樂至稗田之日、有人曰、自河內軍多至。則遣坂本臣財・長尾直眞墨・倉墻直麻呂・民直小鮪・谷直根麻呂率三百軍士距於龍田、復遣佐味君少麻呂率數百人屯大坂、遣鴨君蝦夷率數百人守石手道。是日、坂本臣財等次于平石野。時聞近江軍在高安城而登之。乃近江軍、知財等來、以悉焚秋税倉、皆散亡。仍宿城中。會明臨見西方、自大津・丹比兩道軍衆多至、顯見旗旘。有人曰、近江將壹伎史韓国之師也。財等、自高安城降以渡衞我河、與韓国戰于河西、財等衆少不能距。先是、遣紀臣大音、令守懼坂道。於是、財等、退懼坂而居大音之營。是時、河內国司守來目臣鹽籠、有歸於不破宮之情、以集軍衆。爰韓国到之、密聞其謀而將殺鹽籠。鹽籠、知事漏、乃自死焉。經一日、近江軍當諸道而多至。卽並不能相戰、以解退。
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現代語訳

初めの頃の話です(つまり即位元年7月1日)。将軍の吹負(フケイ)が乃楽(ナラ=奈良市)に向かって稗田(ヒエダ=奈良県大和郡山市稗田町)に到着した日に、人が居て、言いました。
「河内から軍がたくさん到着しています」
すぐに坂本臣財(サカモトノオミタカラ)・長尾直真墨(ナガオノアタイマスミ)・倉墻直麻呂(クラカキノアタイマロ)・民直小鮪(タミノアタイオシビ)・谷直根麻呂(タニノアタイネマロ)を派遣して300人の軍士(イクサビト=兵士)を率いて、竜田(タツタ=竜田山)を塞ガセました。また、佐味君少麻呂(サミノキミスクナマロ)を派遣して数百人を率いて、大坂(オオサカ=大和こく葛上郡大坂郷=現在の奈良県北葛城郡香芝町逢坂)に駐屯させました。鴨君蝦夷(カモノキミエミシ)を派遣して、数百人を率いて、石手道(イワテノミチ)を守らせました。
この日(7月1日)に坂本臣財たちは、平石野(ヒライシノノ=未詳)で泊まりました。その時、近江の軍は高安城(タカヤスノキ=天智天皇が作った高安の城)に居ると聞いて、登りました。近江の軍は財(タカラ)たちが来ると知って、すべての税倉(チカラクラ)を焼いて、皆、散って逃亡しました。それで城の中に宿泊しました。会明(アケボノ=明けた朝)に西の方を望み見ると、大津・丹比の二つの道から軍の衆8ヒトドモ=兵士)がたくさん到着しました。はっきりと旗旘(ハタ)が見えました。人が言いました。
「近江の将軍、壱岐史韓国(イキノフビトカラクニ)の師団だ!」
財(タカラ)たちは高安城(タカヤスノキ)から降りて、衞我河(エガノカワ=大阪府柏原市の大和川の合流地点の石川)を渡って、韓国(カラクニ)と河の西で戦いました。財(タカラ)たちは衆(イクサ=兵士)が少なくて、防ぐことはできませんでした。

これより以前の話です。紀臣大音(キノオミオオト)を派遣して、懼坂道(カシコノサカノミチ=未詳)を守らせました。その時、財(タカラ)たちは懼坂(カシコノサカ)に退いて、大音が陣営にいました。この時に、河内国司守(カワチノクニノミコトモチノカミ)の来目臣塩籠(クメノオミシオコ)は不破宮に帰属する心があり、軍衆(イクサノヒトドモ=兵士)を集めました。そこに韓国が到着して、密かにその謀(ハカリコト)を聞いて、まさに塩籠(シオコ)を殺そうとしました。塩籠は計画が漏れたことがわかり、すぐに自死しました。

1日を経て、近江の軍は諸々の道に当たり、多くが到着しました。(財たちでは)一斉に戦うことは出来ず、解散して退却しました。
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解説

なぜ7月1日に話が戻るか?
おそらく元ネタの本が複数あったのでしょう。各家で記述を残していて、それを集約して日本書記を編纂しているようです。
ちなみに7月1日の記述は以下のページにもあります。

ここいら辺は難しい・・・というかややこしく分かりにくいので、いずれ表にしてまとめようと思います。
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