天武天皇(三十五)沙宅昭明の死・新羅と百済の使者

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天武天皇(三十五)沙宅昭明の死・新羅と百済の使者

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現代語訳

(即位2年)閏6月6日。大錦下(ダイキンゲ)の百済の沙宅昭明(サタクショウミョウ)が亡くなりました。人となりは聡明で叡智があり、秀才と言われました。天皇は驚いて、恩(ミメグミ)を降して、外小紫位(トノショウシノクライ)を贈りました。重ねて、本国の大佐平位(ダイサヘイノクライ)を与えました。
6月8日。耽羅(タムラ=済州島)の王子の久麻芸(クマギ)・都羅(ツラ)・宇麻(ウマ)などを派遣して朝貢しました。
6月15日。新羅は韓阿飡(カムアサン=新羅の官位の名前)の金承元(キンジョウガン)・阿飡(アサン=新羅の官位の名前)の金祗山(キンギセン)・大舍(ダイサ=新羅の官位の名前)の霜雪(ソウセツ)たちを派遣して、騰極(ヒツギノコト=天皇の即位)を祝いました。合わせて、一吉飡(ツキツサン=新羅の官位の名前)の金薩儒(キンサチヌ)・韓奈末(カンマナ=新羅の官位の名前)の金池山(キンチセン)たちを派遣して、前の天皇の喪の弔いをしました。
あるいは、調(ミツキ=税)の使者と言います。

その送った使者として、貴干宝(キカンホウ=貴干は新羅の地方の官位名)の真毛(シンモウ)は、承元(ショウガン)の薩儒(サチヌ)を筑紫へ送りました。
6月24日。貴干宝たちを筑紫で宴会をしてもてなしました。禄を与え、それぞれに品が有りました。筑紫から国に帰りました。
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解説

百済は無くなっても、こうやって使者が来るってことはおかしい。だから嘘。ということは無く、百済が無くなることと、使者が来ることは、当時の常識としては何の矛盾もないことだったんでしょう。

多分、国家としての政府と、民間や地方自治体は分離していたんじゃないかと思います。
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原文

閏六月乙酉朔庚寅、大錦下百濟沙宅昭明卒。爲人聰明叡智、時稱秀才。於是、天皇驚之、降恩以贈外小紫位、重賜本國大佐平位。

壬辰、耽羅、遣王子久麻藝・都羅・宇麻等朝貢。己亥、新羅、遣韓阿飡金承元・阿飡金祗山・大舍霜雪等、賀騰極。幷遣一吉飡金薩儒・韓奈末金池山等、弔先皇喪。一云、調使。其送使貴干寶・眞毛、送承元・薩儒於筑紫。戊申、饗貴干寶等於筑紫、賜祿各有差、卽從筑紫返于國。
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