天武天皇(三十九)紀臣阿閉麻呂の死・対馬の銀・伊勢神宮の神宝

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天武天皇(三十九)紀臣阿閉麻呂の死・対馬の銀・伊勢神宮の神宝

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原文

三年春正月辛亥朔庚申、百濟王昌成薨、贈此小紫位。二月辛巳朔戊申、紀臣阿閉麻呂卒。天皇大悲之、以勞壬申年之役贈大紫位。三月庚戌朔丙辰、對馬国司守忍海造大国言、銀始出于當国、卽貢上。由是、大国授小錦下位。凡銀有倭国、初出于此時。故、悉奉諸神祗、亦周賜小錦以上大夫等。秋八月戊寅朔庚辰、遣忍壁皇子於石上神宮、以膏油瑩神寶。卽日勅曰、元來諸家貯於神府寶物、今皆還其子孫。冬十月丁丑朔乙酉、大來皇女、自泊瀬齋宮向伊勢神宮

現代語訳

即位3年春1月10日。百済王の昌成(ショウジョウ)が亡くなりました。小紫位(ショウシノクライ)を贈りました。
2月28日。紀臣阿閉麻呂(キノオミアヘマロ)が亡くなりました。天皇はとても悲しみました。壬申の年の役(エダチ)での功労をもって、大紫位(ダイシノクライ)を贈りました。
3月7日。対馬国司守(ツシマノクニノミコトモチノカミ)の忍海造大国(オシヌミノミヤツコオオクニ)は言いました。
「銀が初めて、この国(=ここでは対馬のこと)で出ました。すぐに献上します」
それで大国に小錦下位(ショウキンゲノクライ)を授けました。おそらく銀(シロカネ)が倭国に有るのはこの時が初めてです。それで全ての諸々の神祇(アマツカミクニツカミ)に献上しました。また全ての小錦(ショウキン)よりも上の大夫(マヘツキミ=臣下)たちに与えました。

秋8月3日。忍壁皇子(オサカベノミコ)を石上神宮(イソノカミノカミノミヤ)に派遣して、膏油(コウユ)で神宝(カンダカラ)を磨かせました。その日に勅(ミコトノリ)して言いました。
「元来、諸々の家が神府(ホクラ=神社の宝物庫)にため込んだ宝物は、今、皆、その子孫に返却しなさい」
冬10月9日。大来皇女(オオクノヒメミコ)は泊瀬の斎宮(イツキノミヤ)から伊勢神宮に向かいました。
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解説


対馬で銀が発見され、採掘が始まりました。現在では銀は取れませんが、かつては「銀山神社」があったらしいです。
大夫
小錦より上の位は「大夫」と呼ばれ、差があったのでしょう。
神宝
これがどういう意味なのか、よく分かりません。神社の倉庫に所蔵されていた「武器」を返却したと言われますが、返却はむしろ危険な感じしかしない。

個人的にはこう考えています。

伊勢神宮は当時、この地方の「神社」だった。平安時代以降は「天皇しか参拝しちゃいけない神社」となりましたが、あくまで地方の誰でも参拝できる神社だった。参拝はどうか分からないけど、天皇専門じゃなかった。ところが、天武天皇のあたりから「アマテラス」を神聖視して、天皇の先祖をアマテラスにした。だから伊勢神宮はここで特別な神社となった。となると、宝物庫に無関係のお宝が山積みになっているのはマズイ。それで返却した。というところじゃないかな、と。
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