天武天皇(四十六)大分君恵尺の病死

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天武天皇(四十六)大分君恵尺の病死

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原文

六月癸酉朔乙未、大分君惠尺、病將死。天皇大驚、詔曰「汝惠尺也、背私向公、不惜身命、以遂雄之心勞于大役。恆欲慈愛。故爾雖既死、子孫厚賞。」仍騰外小紫位。未及數日、薨于私家。

現代語訳

(即位4年)6月23日。大分君恵尺(オオキダノキミエサカ)は病死しそうでした。天皇はとても驚いて、詔(ミコトノリ)して言いました。
「お前、恵尺(エサカ)は私心を捨て、公(オオヤケ)に心を向け、身命(イノチ)を惜しまなかった。雄々しい心を持ち、大きな役(エダチ=壬申の乱のこと)で功労した。常に慈愛の心を持って接したいと思っていた。お前がもう、死んでしまうといっても、子孫に厚く褒賞を与えよう」
それで外小紫位(トノショウシノクライ)を与えました。それから数日も経たないうちに、個人の家で亡くなりました。
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解説

恵尺は壬申の乱で、大事な役割を果たした人物。大和へ駅鈴を取りに行ったが、譲渡してもらえなかったので、近江に移動。そこで大津皇子と合流し、のちに東国で大海人皇子と合流。

大分君恵尺は九州の豪族で壬申の乱の勃発時には大海人皇子の舎人という身分の低い人物だったと見られています。それがその功績によって「外位」とはいえ小紫を与えられるというのは、なかなかの出世です。天武天皇には「身分や血筋」ではなく「功績」によって評価しようという気持ちがあった、のかもしれません。
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