天武天皇(六十八)紀臣堅摩呂の死・10年に兵器と馬の検校を

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天武天皇(六十八)紀臣堅摩呂の死・10年に兵器と馬の検校を

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現代語訳

(即位8年)2月1日。高麗の上部(ショウホウ=高麗の地域)の大相(ダイソウ=高麗の官位の名前)の桓父(カンブ)・下部(カホウ=高麗の地域)の大相の師需婁(シズル)たちを派遣して朝貢しました。
新羅は奈末(マナ=新羅の官位の名前)の甘勿那(カンモツナ)を派遣して、桓父(カンブ)を筑紫に送迎しました。
2月3日。紀臣堅摩呂(キノオミカタマロ)が亡くなりました。壬申の年の功績を持って、大錦上位(ダイキンジョウノクライ)を送りました。
2月4日。詔(ミコトノリ)して言いました。
「辛巳年(天武天皇10年…現在は8年2月)に親王・諸臣と百寮(ツカサツカサ=役人)の人たちの兵器と馬を検校(カムガエ=検査)する。準備しておきなさい」
この月に大恩(ミメグミ)を降して、貧乏の者に恵みました。飢え凍えたものにモノを与えました。
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解説

兵器と馬の検校
非常にしつこく親王・諸臣や役人の武装化を要求。これまでにも非常に強く要求してきましたが、いよいよ期限を区切って武装を要求しています。でも2年なんですよね。
これまでの記述を読む限りは、武装化の理由は、白村江の戦いで唐が攻めてくると仮定している、と思ったのですが、武装化をこの時点から「2年」を区切って要求となると、とてもじゃないけど「唐が攻めてくるから」とは言えないですよね。唐が攻めてくるという切羽詰まった状況なら「2年以内に」というのはありえない。のんびり過ぎる。

武装化は唐との戦争を仮定したものじゃないのでしょう。
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原文

二月壬子朔、高麗、遣上部大相桓父・下部大相師需婁等、朝貢。因以、新羅遣奈末甘勿那、送桓父等於筑紫。甲寅、紀臣堅摩呂、卒。以壬申年之功、贈大錦上位。乙卯、詔曰「及于辛巳年、檢校親王諸臣及百寮人之兵及馬。故、豫貯焉。」是月、降大恩恤貧乏、以給其飢寒。
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