天武天皇(七十一)天皇と皇后と皇子達の誓盟

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天武天皇(七十一)天皇と皇后と皇子達の誓盟

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原文

五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。乙酉、天皇、詔皇后及草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子曰「朕、今日與汝等倶盟于庭而千歲之後欲無事、奈之何。」皇子等共對曰、理實灼然。則草壁皇子尊、先進盟曰「天神地祗及天皇、證也。吾兄弟長幼幷十餘王、各出于異腹、然不別同異、倶隨天皇勅而相扶無忤。若自今以後、不如此盟者、身命亡之子孫絶之。非忘非失矣。」五皇子、以次相盟如先。然後、天皇曰「朕男等各異腹而生、然今如一母同産慈之。」則披襟抱其六皇子。因以盟曰「若違茲盟、忽亡朕身。」皇后之盟、且如天皇。丙戌、車駕還宮。己丑、六皇子共拜天皇於大殿前。
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現代語訳

(即位8年)5月5日。天武天皇は吉野宮(ヨシノノミヤ)に行きました。
5月6日。天皇は皇后と、草壁皇子尊(クサカベノミコノミコト)・大津皇子(オオツノミコ)・高市皇子(タケチノミコ)・河嶋皇子(カワシマノミコ)・忍壁皇子(オサカベノミコ)・芝基皇子(シキノミコ)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「朕(ワレ)は今日、お前たちとともに庭で誓い、千年経っても、大きな事件が無いように思う。どうだろうか?」
皇子たちは皆んなが答えて言いました。
「その道理は、明らかに正しいことです」
草壁皇子尊はまず、進んで誓って言いました。
「天神地祇と天皇は証明してください。私と兄弟の年長者と幼い者の合わせて10人余りの王はそれぞれが別々の腹から出ました。しかし、同じだろうと、異なっていても、変わらず、皆んな、天皇の勅(ミコトノリ)に従って、助け合い、いがみ合うことはありません。もし、今から以後、この誓いのようにならないなら、命が滅び、子孫は絶えるでしょう。忘れません。そして、過ちを起こしません」
5人の皇子も、前と同じように続いて誓い合いました。そうした後に天皇は言いました。
「朕の男たちは、それぞれ別の腹から生まれました。それでも今、一人の母のお同じ腹のように慈愛を持っている」
襟(ミソノヒモ)を開いて、その6人の皇子を抱きました。そして誓って言いました。
「もしこの誓いを違えば、たちまち朕の身を滅ぼすだろう」
皇后も誓いました。天皇のように誓いました。
5月7日。車駕(スメラミコト=天皇の乗った乗り物)は宮に帰りました。
5月10日。6人の皇子はともに天皇を大殿(オオトノ)の前で拝礼しました。
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解説

誓約
日本人は言葉が現実化すると考えていました。その現実化の「現実になりやすさ」を左右するのが、本人の「霊力」と、言葉の「正しさ」です。
ここで天武天皇と皇子達は、言葉を発して誓います。
そんで「仲違いしたら、子孫まで滅ぶよ」とうまくいった場合と失敗した場合を述べています。これは完全に誓約の形式です。誓約と言っていいでしょう。
草壁皇子
今まで大津皇子と高市皇子は壬申の乱で活躍していましたから、印象に残っていますが、草壁皇子がどうしてしゃしゃり出てくるのかと。

草壁皇子は天武天皇と次の持統天皇の子です。持統天皇は草壁皇子を次の天皇にしたかったのでしょう。大津皇子に謀反の疑いをかけて処刑。次の天皇は草壁皇子と目されていましたが、夭逝してしまい、草壁皇子が天皇になることはありませんでした。持統天皇は仕方なく、草壁皇子の子供の文武天皇を15歳で次の天皇にしました。ところが文武天皇も20代で夭逝。その後に元正天皇・元明天皇とリリーフがあって、その次に文武天皇の子の聖武天皇が即位しますが、聖武天皇には男子の子が生まれず、血統は途絶えます。

つまり、この時の誓約の言葉のままに、皇子で仲違いした結果、血統は途絶えることになるわけです。
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