天武天皇(七十九)飛鳥寺の西の槻が折れる・犬養連大伴の病・弘聡僧と三宅連石床と舎人王の死

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天武天皇(七十九)飛鳥寺の西の槻が折れる・犬養連大伴の病・弘聡僧と三宅連石床と舎人王の死

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現代語訳

(即位9年)秋7月1日。飛鳥寺の西の槻(ツキ)の枝が、自然と折れて落ちました。
7月5日。天皇は、犬養連大伴(イヌカイノムラジオオトモ)の家に行き、病気を見舞いいました。大恩(ミメグミ=慈愛)を降しました。云々。この日に雨乞いをしました。
7月8日。広瀬・竜田の神を祭りました。
7月10日。朱雀(アカスズミ)が南門に現れました。
7月17日。朴井連子麻呂(エノイノムラジコマロ)に小錦下位を授けました。
7月20日。飛鳥寺の弘聡僧(グソウホウシ)が亡くなりました。大津皇子(オオツノミコ)・高市皇子(タケチノミコ)を派遣して弔いさせました。
7月23日。小錦下の三宅連石床(ミヤケノムラジイワトコ)が亡くなりました。壬申の年の功績によって、大錦下位(ダイキンゲノクライ)を贈りました。
7月25日。納言(モノモウスツカサ)兼、宮内卿(ミヤノウチノツカサノカミ)の五位の舍人王(トネリノオオキミ)が病気で亡くなりそうでした。すぐに高市皇子を派遣して、このことを訊(トブラ)わせました。翌日、亡くなりました。天皇はとても驚いて、高市皇子・川嶋皇子を派遣しました。殯(モガリ)に臨んで、泣きました。百寮(ツカサツカサ=役人)は従って泣きました。
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解説

飛鳥寺の西の槻
壬申の乱時に、大海人皇子を鎮圧するために近江朝廷は軍隊を起こしました。その軍隊の編成を行った場所が「飛鳥寺の西の槻の下」で、関わったのが「穗積臣百足」です。その軍は結局、大海人皇子側へ、一部の兵士が寝返ったことから、混乱状態になります。その混乱時に穗積臣百足は小墾田にいました。そこで「高市皇子が呼んでいる」と伝えて呼び出し、ついには穗積臣百足を殺してしまいます。
その殺された場所も飛鳥寺の西の槻の木の下です。

軍隊がごっそり寝返り、その編成に関わった重要人物が殺されるわけですから、この一連は壬申の乱でもかなり重要な事件です。その現場となった飛鳥寺の西の槻が「自然と折れた」。これが吉兆であろうはずがない。何か、悪いことを指しているのではないかと思います。
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原文

秋七月甲戌朔、飛鳥寺西槻枝、自折而落之。戊寅、天皇幸犬養連大伴家以臨病、卽降大恩、云々。是日、雩之。辛巳、祭廣瀬龍田神。癸未、朱雀、有南門。庚寅、朴井連子麻呂、授小錦下位。癸巳、飛鳥寺弘聰僧終、遣大津皇子・高市皇子而弔之。丙申、小錦下三宅連石床卒、由壬申年功贈大錦下位。戊戌、納言兼宮內卿五位舍人王病之臨死、則遣高市皇子而訊之。明日卒、天皇大驚、乃遣高市皇子・川嶋皇子、因以臨殯哭之、百寮者從而發哀。
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