天武天皇(八十一)賑給を行う・高麗人の帰国・百官に政策を問う

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天武天皇(八十一)賑給を行う・高麗人の帰国・百官に政策を問う

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原文

冬十月壬寅朔乙巳、恤京內諸寺貧乏僧尼及百姓而賑給之、一毎僧尼各絁四匹・綿四屯・布六端、沙彌及白衣各絁二匹・綿二屯・布四端。十一月壬申朔、日蝕之。甲戌、自戌至子、東方明焉。乙亥、高麗人十九人返于本土、是當後岡本天皇之喪而弔使留之未還者也。戊寅、詔百官曰、若有利国家寛百姓之術者、詣闕親申、則詞合於理立爲法則。

現代語訳

(即位9年)冬10月4日。京内(ミヤコノウチ)の諸々の寺の貧乏な僧尼と百姓たちを可哀想に思い、賑給(ニギワエタマイ=貧しいものに施しをすること)をしました。僧・尼の1人ごとにそれぞれに絁(フトギヌ)二匹・綿(ワタ)二屯・布(ヌノ)四端を与えました。沙弥(シャミ=出家はしているが修行中のもの)と白衣(シロキヌ=俗人=僧尼でもなく沙弥でもない普通の人)にはそれぞれに絁二匹・綿二屯・布四端を与えました。
11月1日に日蝕がありました。
11月3日。戌(イヌノトキ=午後11時)から子(ネノトキ=深夜0時)まで、東の方が明るかったです。
11月4日。高麗人19人が本土に帰りました。これは後岡本天皇(ノチノオカモトノスメラミコト=斉明天皇)の喪にあたり、弔いの使者が留まっていて、まだ帰っていなかった者です。
11月7日。百官(ツカサツカサ)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「もし、国家に利をもたらし、百姓を豊かにする術(ミチ)があるのならば、闕(ミカド=朝廷)に参りでて、自ら申しなさい。言葉と理屈が合えば、法則(ノリ)として建てよう」
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解説

高句麗
高句麗は668年(天智天皇7年)に滅亡したとされます。しかし、高麗(=高句麗)からの使者はその後も来日しています。これは辻褄が合わない、ように思えますが、古代の朝鮮は、現在のように「国家」というのが曖昧だったのだろうと私は考えています。高麗という国家は滅んでも、高麗という地域に住む高麗人は当然存在し、経済活動を行います。今でいうと、政府はなくなっても、地方自治体は消えず、そのまま他国と貿易をしているって感じじゃないかと。

この考えは決して、むちゃくちゃではない、と思っています。例えば、朝鮮人のDNAを調べると、ミトコンドリアでは日本人とよく似ているのに、Y遺伝子では相違があります。これは、古代の朝鮮人は日本人と同じですが、その後侵略者がやってきた、ということを表しています。

三国史記という朝鮮の歴史書を読むと、朝鮮の神話は明らかに北方由来の神話です。ということは、朝鮮半島に住んでいた「日本人」を中国の「東北異民族」が支配した結果、生まれたのが「朝鮮人」というのが妥当な結論です。

高麗人は東北異民族によって新たな文化を庶民にもたらしたとはいえ、そもそも政府と庶民が血統の違う民族で、考えや感覚もかなり違っていたのだとするのが自然。だから高麗の政府が無くなっても、独立して民間が日本と交易をしても不自然じゃない、と考えています。
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