天武天皇(百七)東庭で弓を射る儀式・畿内と信濃と京師を視察

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天武天皇(百七)東庭で弓を射る儀式・畿内と信濃と京師を視察

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現代語訳

即位13年春1月17日。三野県主(ミノノアガタヌシ)・内藏衣縫造(クラノキヌヌイノミヤツコ)の2氏に姓(カバネ)を与えて連(ムラジ)と言うようになりました。
1月23日。天皇は東庭(ヒンガシノオホボ)に居ました。群卿(マヘツキミタチ=臣下たち)も従いました。その時に、弓を射ることが出来る人と、侏儒(サキヒト=滑稽なことをする小人)・左右舍人(ヒダリミギノトネリ=側の従者)たちを呼び寄せて弓を射る儀式をしました。

2月24日。筑紫で金主山(キンシュセン=新羅の使者)を宴会をしてもてなしました。
2月28日。浄広肆広瀬王(ジョウコウシヒロセノオオキミ)・小錦中の大伴連安麻呂(オオトモノムラジヤスマロ)と判官(マツリゴトヒト)・録事(フビト)・陰陽師(オンヨウジ)・工匠(タクミ)たちを畿内に派遣して、都を作るべき土地を視察させました。この日に三野王(ミノノオオキミ)・小錦下の采女臣筑羅(ウネメノオミツクラ)たちを信濃に派遣して、地形を視察させました。この土地に都を作ろうとしたのか。

3月8日。吉野人宇閉直弓(ヨシノノヒトウヘノアタイユミ)が白海石榴(シラツバキ=白い椿)を献上しました。
3月9日。天皇は京師(ミヤコ=ここでは飛鳥のこと)に巡行して、宮室の土地を定めました。
3月23日。金主山は帰国しました。
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解説

都を二つ
中毒では長安と洛陽と言うように、複数の「都」を持つようにしていました。その真似ってことなのでしょうか。日本で複数の都を設置するのは、やはり日本は「中国に匹敵する存在である」とするため、なのでしょうかね?
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原文

十三年春正月甲申朔庚子、三野縣主・內藏衣縫造二氏賜姓曰連。丙午、天皇、御于東庭、群卿侍之。時召能射人及侏儒・左右舍人等射之。
二月癸丑朔丙子、饗金主山於筑紫。庚辰、遣淨廣肆廣瀬王・小錦中大伴連安麻呂及判官・錄事・陰陽師・工匠等於畿內、令視占應都之地。是日、遣三野王・小錦下采女臣筑羅等於信濃令看地形、將都是地歟。
三月癸未朔庚寅、吉野人宇閉直弓、貢白海石榴。辛卯、天皇、巡行於京師而定宮室之地。乙巳、金主山歸国。
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