天武天皇(百三十二)民部省の藏庸舍屋が火事・稲資材の徳政令

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天武天皇(百三十二)民部省の藏庸舍屋が火事・稲資材の徳政令

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原文

秋七月己亥朔庚子、勅、更男夫着脛裳・婦女垂髮于背、猶如故。是日、僧正僧都等、參赴宮中而悔過矣。辛丑、詔諸国大解除。壬寅、半減天下之調、仍悉免徭役。癸卯、奉幣於居紀伊国々懸神・飛鳥四社・住吉大神。丙午、請一百僧讀金光明經於宮中。戊申、雷光南方而一大鳴、則天災於民部省藏庸舍屋。或曰、忍壁皇子宮失火延燒民部省。癸丑勅曰、天下之事、不問大小、悉啓于皇后及皇太子。是日、大赦之。甲寅、祭廣瀬龍田神。丁巳詔曰、天下百姓由貧乏而貸稻及貨財者、乙酉年十二月卅日以前、不問公私皆免原。

現代語訳

(即位15年)秋7月2日。勅しました。
「男夫は脛裳(ハバキモ)を着て、婦女は垂髮于背(スベシモトドリ)にするように、元のように師なさい」
この日に僧正と僧都たちは宮中に赴いて、悔過(カイカ=罪を懺悔する儀式)をしました。
7月3日。諸国に詔して大解除(オオハラエ)しました。
7月4日。天下の調(ミツキ=税)を半分、減免しました。すべての徭役(ミユキエダチ=労役)を免除しました。
7月5日。幣(ミテグラ)を紀伊国の国懸神(クニカカスカミ)・飛鳥四社・住吉大神に奉じました。
7月8日。100人の僧に請願して、金光明経(コンコウミョウギョウ)を宮中で読ませました。
7月10日。雷が南の方で光って、1度大きく鳴りました。民部省の藏庸舍屋(チカラヲオサムルヤ)が火事になりました。ある人は言いました。
「忍壁皇子の宮の失火の延長で民部省が焼けた」
7月15日。勅して言いました。
「天下のこと、大小を問わず、すべて皇后と皇太子に申せ」
この日に大赦(オオキニツミユルス)しました。
7月16日。広瀬・竜田の神を祭りました。
7月19日。詔(ミコトノリ)して言いました。
「天下の百姓が貧乏であるからと、稲と資材を貸した者は乙酉(キノトノトリ=天武即位14年=現在は即位15年)の年の12月30日より以前は、公私を問わず、皆、免除しなさい」
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解説

脛裳
ハバキモは袴の一種。天武天皇即位11年3月に「脛裳を身につけるな」という詔が出ています。
垂髮于背
天武天皇即位11年に男女も「髪を結う」ようにと詔が出ています。

反対にあって制度を変えたのでしょう。
忍壁皇子の宮の失火
あくまで噂という形で「忍壁皇子の宮から失火した」と書いてあります。忍壁皇子は天武天皇の子ですが、あまり優遇されていません。
私個人の考えですが…
忍壁皇子は帝紀の編纂を命じられています。

筆をとり、記録をしたとあります。
日本人は穢れを嫌いました。筆は動物の死体から取れる毛で作ったもので、とても穢れているものです。そういうものを手に取る忍壁皇子は、穢れているから天皇候補から漏れたんじゃないか?と思うのです。
忍壁皇子はその後、大宝律令の編纂に関ったり、藤原不比等と懇意になってその後は政治にある程度の影響力を持つようになりますが、これも筆を取ったことが理由じゃないかと思うのです。筆を取るということは、穢れるので日本では、まだまだ少数派で孤立しやすかったのでしょう。しかし、文字が書けるということは仕事がしやすいわけで、権力を握りやすい。だから藤原不比等は協力者として忍壁皇子を選んだ。
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