持統天皇(二十一)即位とその儀式と大赦

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持統天皇(二十一)即位とその儀式と大赦

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現代語訳

即位4年春1月1日。物部麻呂朝臣(モノノベノマロノアソミ)は大盾(オオタテ)を樹(タ)てました。神祗伯(カムヅカサノカミ)の中臣大嶋朝臣(ナカトミノオオシマノアソミ)は天神寿詞(アマツカミノヨゴト)を読みました。読み終わると、忌部宿禰色夫知(イミベノスクネシコブチ)は神璽(カミノシルシ)の剣と鏡を皇后に奉りました。皇后は天皇に即位しました。公卿百寮(マヘツキミツカサツカサ=臣下と役人)は羅列して、皆、拝み、拍手しました。
1月2日。公卿百寮は拝み、元会儀(ムツキノツイタチノヒノヨソオイ=元旦の日の儀式の身なり)のようでした。丹比嶋真人(タジヒノシマノマヒト)と布勢御主人朝臣(フセノミヌシノアソミ)と賀騰極(ヒツギヨロコブルコト=即位の祝辞)を申し上げました。
1月3日。公卿(マヘツキミ=臣下)と内裏で宴(トヨノアカリ)をしました。衣裳を与えました。
1月15日。百寮(ツカサツカサ=役人)は薪(ミカマギ=儀式用の薪)を献上しました。
1月17日。天下に大赦しました。ただし常赦(ツネノユルシ)の許さぬ所(=罪の中でも恩赦でも罪の減免のない類があった)だけは、大赦の例に入れない。位のあるものには爵位を1級与えました。鰥寡(ヤモメ=配偶者を失った男女)・孤獨(ヒトリヒト=身寄りのない者)・篤癃(病気や障害のある人)や貧しくて、自力では生きていけない者に稲を与えて、調役(エツキ)を蠲服(ユル=許す)しました。
1月20日。解部(トキベ=訴訟を聞く部署)100人を刑部省(ウタエノツカサ)に拝命しました。
1月23日。幣(ミテグラ=神社に奉納する物)を畿内の天神地祇(アマツカミクニツカミ)に班(アカチマダス)しました(新嘗祭などで神祇官が奉納したのが班幣…このこと)。神戸(カムヘ=神社の封戸)と田地(ミトシロ=神社の田の「神田」)を増しました。
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解説

即位
即位4年に、ついに持統天皇が即位。なんて書くと変なんですが、そう書いてあるのでしょうがない。定説では、持統天皇の子である「草壁皇子」が死んでしまったから、その草壁皇子の子、つまり持統天皇の孫である軽皇子(=文武天皇)に引き継ぐための一時的な「リリーフ」が持統天皇誕生の理由、とされています。

しかし持統天皇は、即位以前の皇后の時から、公務に関わっていたようで、天武天皇が病気になると実務にも関わるようになっていました。となると、一時避難的な措置としての「持統天皇」というよりは、「経験のある人物」の持統天皇の即位と考えた方が自然。そもそも持統天皇の即位が「超法規的」というか「特殊な事情」の結果なら、もっと悶着があってもいいと思うのです。天武天皇には皇子が他にもいます。だからむしろ揉めない方がおかしい。それが全然ない。

持統天皇は「望んで」即位したんじゃないか?とも思います。もしかすると実子である草壁皇子を殺したのは、持統天皇なのでは? だから草壁皇子は死因も死の経緯も描かれなかったのではないか???
まぁ、これは邪推ってものですけどね。

自然に考えると……天武天皇には皇子が多いから揉める。つまり皇子から次の天皇を選ぶということはまた国を二分する壬申の乱が再来する。それは避けたい。だから揉め事が避けられる「持統天皇」という選択肢が選ばれた。そういう動機があったんじゃないかと思います。
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原文

四年春正月戊寅朔、物部麻呂朝臣、樹大盾。神祗伯中臣大嶋朝臣、讀天神壽詞。畢、忌部宿禰色夫知、奉上神璽劒鏡於皇后。皇后、卽天皇位。公卿百寮、羅列匝拜而拍手焉。己卯、公卿百寮、拜朝如元會儀。丹比嶋眞人與布勢御主人朝臣、奏賀騰極。庚辰、宴公卿於內裏。壬辰、百寮進薪。甲午、大赦天下、唯常赦所不免、不在赦例。賜有位人爵一級。鰥寡・孤獨・篤癃・貧不能自存者、賜稻、蠲服調役。丁酉、以解部一百人、拜刑部省。庚子、班幣於畿內天神地祗、及増神戸田地。
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