持統天皇(二十七)大伴部博麻は唐に独り30年残った

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持統天皇(二十七)大伴部博麻は唐に独り30年残った

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現代語訳

(即位4年)冬10月5日。天皇は吉野宮に行きました。
10月10日。大唐の学問僧の智宗たちは京師に到着しました。
10月15日。使者を派遣して、筑紫大宰の河内王(カフチノオオキミ)たちに詔(ミコトノリ)して言いました。
新羅の送迎の使者の大奈末の金高訓(キンコウクン)たちを宴会をしてもてなすのは、学生の土師宿禰甥(ハジノスクネオイ)たちを送迎した送迎の使者の例に倣いなさい。その慰労に物を与えるのは、詔書のままに従いなさい」
10月22日。軍丁(イクサヨホロ=軍兵)の筑紫国の上陽咩郡(カミツヤメノコオリ)の人の大伴部博麻(オオトモベノハカマ)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「天豊財重日足姫天皇(アメトヨタカライカシヒタラシヒメノスメラミコト=斉明天皇)の即位7年に百済を救うための役(エダチ=戦争)にお前は、唐の軍のために捕虜にさせられた。天命開別天皇(アメノミコトヒラカスワケノスメラミコト=天智天皇)の3年に及び、土師連富杼(ハジノムラジホド)・氷連老(ヒノムラジオユ)・筑紫君薩夜麻(ツクシノキミサチヤマ)・弓削連元宝(ユゲノムラジガンホウ)の子の4人は、唐人が(戦争の)計画をしていることを、(日本の朝廷に)伝えようと思ったのだが、衣粮(キモノカテ=衣服も食料も)ないので、日本に達することができないことを憂いていた。そこで博麻(ハカマ)は土師富杼(ハジノホド)たちに語って言った。
『私は、お前たちとともに、本朝(ミカド=大和朝廷)に帰ろうとしても、衣粮が無いので、ともに(唐から)去ることはできない。願う。我が身を売って、衣食に当てなさい』
富杼(ホド)たちは、博麻(ハカマ)の計画のままに、天朝(ミカド)に伝えることが出来た。お前は、独り、他界(ヒトクニ=外国)に長く滞在し、現在まで30年。朕はその朝廷を尊び、国を愛し、我が身を売って、忠誠心を表したことを喜んでいる。だから、務大肆の位と、絁(フトギヌ)五匹・綿一十屯・布卅端・稲一千束・水田四町を与える。その水田は曾孫まで相続して良い。三族(ミツノヤカラ)の課役(エツキ)を免除して、その功績を表そう」
10月29日。高市皇子、藤原の宮地を観ました。公卿百寮(マヘツキミツカサツカサ=臣下と役人)が従いました。
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解説

いつ捕虜になったのか分かりません。しかし、仲間を日本に送るために我が身を売るよう提案するなんて凄い。
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原文

冬十月甲辰朔戊申、天皇幸吉野宮。癸丑、大唐學問僧智宗等、至于京師。戊午、遣使者詔筑紫大宰河內王等曰「饗新羅送使大奈末金高訓等、准上送學生土師宿禰甥等送使之例。其慰勞賜物、一依詔書。」乙丑、詔軍丁筑紫國上陽咩郡人大伴部博麻曰「於天豐財重日足姬天皇七年、救百濟之役、汝、爲唐軍見虜。洎天命開別天皇三年、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶兒、四人、思欲奏聞唐人所計、緣無衣粮、憂不能達。於是、博麻謂土師富杼等曰『我欲共汝還向本朝。緣無衣粮、倶不能去。願賣我身以充衣食。』富杼等、依博麻計、得通天朝。汝獨淹滯他界、於今卅年矣。朕、嘉厥尊朝愛國・賣己顯忠。故、賜務大肆、幷絁五匹・綿一十屯・布卅端・稻一千束・水田四町。其水田、及至曾孫也。免三族課役、以顯其功。」壬申、高市皇子觀藤原宮地、公卿百寮從焉。
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