持統天皇(二十九)百済王の余禅広に優を・皇子たちに封を・筑紫史益に賞与を

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持統天皇(二十九)百済王の余禅広に優を・皇子たちに封を・筑紫史益に賞与を

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現代語訳

即位5年。春1月1日。親王(ミコ)・諸臣(マヘツキミ)・内新王(ヒメミコ)・女王(ヒメオオキミ)・内命婦(ヒメマヘツキミ)たちに、位を与えました。
1月7日。公卿(マヘツキミタチ=臣下たち)に飲食(オシモノ)と衣裳(キモノ)を与えました。正広肆の百済王の余禅広(ヨゼンコウ)・直大肆の遠宝(オンホウ=禅広の子?)・良虞(リョウグ=禅広の子)と南典(ナムテン=禅広の子?)に優(ニギホヘ=?)を与えました。それぞれに品がありました。
1月13日。封(ヘヒト=領地で働く人)を増やしました。皇子高市(=高市皇子)は2000戸。前と通すと計3000戸。浄広弐の皇子穂積(=穂積皇子)に500戸。浄大参の皇子川嶋(=川嶋皇子)に100戸、前と通すと500戸。正広参の右大臣の丹比嶋真人(タジヒノシマノマヒト)に300戸。前と通せば500戸。正広肆の百済王の禅広に100戸、前と通せば200戸。直大壱の布勢御主人朝臣(フセノミヌシノアソミ)と大伴御行宿禰(オオトモノミユキノスクネ)とに80戸、前と通せば300戸。その他も封(ヘヒト)を増し、それぞれに品がありました。
1月14日。詔(ミコトノリ)して言いました。直広肆の筑紫史益(ツクシノフビトマサル)は筑紫大宰符典(ツクシノオオミコトモチノツカサノフビト)に拝命されて以来、現在まで29年。清らかで真白な忠誠心を持って、それでいて怠惰(タユ)まない。なので食封(ヘヒト)50戸・絁(フトギヌ)15匹・綿25屯・布50端・稲5000束を与える」
1月16日。天皇は吉野宮に行きました。
1月23日。天皇は吉野宮から帰りました。
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解説

名前の逆転が
持統天皇から「高市皇子」ではなく「皇子高市」と表記してきました。これは中国の表記を真似たとされます。まぁ、書いたのが中国人だったんじゃないかと思いますから、真似たというよりは、編纂者の自然な書き方だった、程度のことかもしれません。
ところが

の最後には「高市皇子」という通常の日本の表記になりました。私は「元ネタ」が違うんじゃないかと思います。

それでこのページではまた「皇子高市」となっています。
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原文

五年春正月癸酉朔、賜親王・諸臣・內新王・女王・內命婦等位。己卯、賜公卿飲食衣裳、優賜正廣肆百濟王餘禪廣・直大肆遠寶・良虞與南典、各有差。乙酉、増封、皇子高市二千戸通前三千戸、淨廣貳皇子穗積五百戸、淨大參皇子川嶋百戸通前五百戸、正廣參右大臣丹比嶋眞人三百戸通前五百戸、正廣肆百濟王禪廣百戸通前二百戸、直大壹布勢御主人朝臣與大伴御行宿禰八十戸通前三百戸、其餘増封各有差。丙戌、詔曰「直廣肆筑紫史益、拜筑紫大宰府典以來於今廿九年矣。以淸白忠誠、不敢怠惰。是故、賜食封五十戸・絁十五匹・綿廿五屯・布五十端・稻五千束。」戊子、天皇幸吉野宮。乙未、天皇至自吉野宮。
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