持統天皇(四十五)桑・紵・梨・栗・蕪菁を植えるよう勧める

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持統天皇(四十五)桑・紵・梨・栗・蕪菁を植えるよう勧める

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原文

二月庚申朔壬戌、新羅遣沙飡金江南・韓奈麻金陽元等、來赴王喪。己巳、詔造京司衣縫王等、收所掘尸。己丑、以流來新羅人牟自毛禮等卅七人、付賜憶德等。三月庚寅朔、日有蝕之。甲午、賜大學博士勤廣貳上村主百濟、食封卅戸、以優儒道。乙未、幸吉野宮。庚子、賜直大貳葛原朝臣大嶋賻物。壬寅、天皇至自吉野宮。乙巳、賜擬遣新羅使直廣肆息長眞人老・勤大貳大伴宿禰子君等・及學問僧辨通・神叡等、絁綿布各有差。又賜新羅王賻物。丙午、詔令天下、勸殖桑紵梨栗蕪菁等草木、以助五穀。

現代語訳

(即位7年)
2月3日。新羅は沙飡(ササン=新羅の官位)の金江南(キンコウナン)・韓奈麻(カンナマ=新羅の官位)の金陽元(キンヨウガン)たちを派遣して、来日して、王(=前年に死んだ新羅の神文王)の喪を告げました。
2月10日。造京司(ミヤコツクルツカサ)の衣縫王(キヌヌイノオオキミ)たちに詔(ミコトノリ)して、掘り出した尸(カバネ=死体)を収めさせました。
2月30日。流れて来て帰化した新羅人の牟自毛礼(ムジモレ)たち37人を憶徳(ヨクトク=朴憶徳)たちに付け与えました。

3月1日。日蝕がありました。
3月5日。大学博士の勤広弐の上村主百済(ウエノスグリクダラ)に食封(ヘヒト)を30戸与えました。儒道(ハカセノミチ)を優れているからです。
3月6日。吉野宮へ行きました。
3月11日。直大弐の葛原朝臣大嶋(フジワラノアソミオオシマ)に賻物(ハブリモノ=遺族に与える香典のようなもの)を与えました。
3月13日。天皇は吉野宮から帰りました。
3月16日。新羅に派遣しようとした使者の直広肆の息長真人老(オキナガノマヒトオユ)・勤大弐の大伴宿禰子君(オオトモノスクネコキミ)たち、および、学問僧の弁通(ベンツウ)・神叡(ジンエイ)たちに、絁(フトギヌ)・綿・布を与え、それぞれに品がありました。また新羅の王に賻物(ハブリモノ)を与えました。
3月17日。詔(ミコトノリ)をして、天下に桑・紵(カラムシ=繊維が取れる植物)・梨・栗・蕪菁(アオナ=今でいうカブ)などの草木を植えるよう勧めました。これらは五穀を助けるものになる。
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解説


新しい都を掘り返すと、死体が出てきた。その死体を納めたってことでしょう。日本人は穢れを嫌います。その土地に穢れたものが眠っているというのは嫌。特に天皇は清らかでないといけない。天皇が住む宮に穢れた遺体が眠っていることは許されなかったのでしょう。
桑・紵・梨・栗・蕪菁
桑は蚕の餌で、絹の材料。紵は繊維の取れる草。梨と栗と蕪菁(カブ)は食用。どれもすでに日本にあるものです。
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