持統天皇(六十)二槻宮へ行幸

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持統天皇(六十)二槻宮へ行幸

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原文

十年春正月甲辰朔庚戌、饗公卿大夫。甲寅、以直大肆授百濟王南典。戊午、進御薪。己未、饗公卿百寮人等。辛酉、公卿百寮、射於南門。二月癸酉朔乙亥、幸吉野宮。乙酉、至自吉野。

三月癸卯朔乙巳、幸二槻宮。甲寅、賜越度嶋蝦夷伊奈理武志與肅愼志良守叡草、錦袍袴・緋紺絁・斧等。夏四月壬申朔辛巳、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。戊戌、以追大貳授伊豫国風速郡物部藥與肥後国皮石郡壬生諸石、幷賜人絁四匹・絲十絇・布廿端・鍬廿口・稻一千束・水田四町、復戸調役、以慰久苦唐地。己亥、幸吉野宮。五月壬寅朔甲辰、詔大錦上秦造綱手、賜姓爲忌寸。乙巳、至自吉野。己酉、以直廣肆授尾張宿禰大隅、幷賜水田卌町。甲寅、以直廣肆贈大狛連百枝、幷賜賻物。
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現代語訳

即位10年春1月7日。公卿大夫(マヘツキミタチ)と宴会をしてもてなしました。
1月11日。直大肆を百済王の南典(ナンデン)に授けました。
1月15日。御薪(ミカマギ)を献上しました。
1月16日。公卿(マヘツキミ)・百寮(ツカサツカサ=役人)の人たちを宴会をしてもてなしました。
1月18日。公卿百寮は南門で弓を射る儀式をしました。

2月3日。持統天皇は吉野宮に行きました。
2月13日。吉野から帰りました。

3月3日。持統天皇は二槻宮(フタツキノミヤ=両槻宮=斉明天皇が建てた宮)に行きました。
3月12日。越の渡嶋(ワタリノシマ=海の向こうの島)の蝦夷の伊奈理武志(イナリムシ)と肅愼(ミシハセ=異民族の一種)の志良守叡草(シラスエソウ)とに錦袍袴(ニシキノキヌハカマ)・緋紺絁(ヒハナダノフトギヌ)・斧(オノ)などを与えました。

夏4月10日。使者を派遣して広瀬大忌神と竜田風神を祀らせました。
4月27日。追大弐を伊予国の風速郡(カゼハヤノコオリ=愛媛県北条市)の人の物部薬(モノノベノクスリ)と肥後国の皮石郡(カワシノコオリ)の人の壬生諸石(ミブノモロシ)に授けました。合わせて一人当たり絁(フトギヌ)4匹・糸10絇・布20端・鍬20口・稲1000束・水田四町を与えました。戸(ヘ=家)の調役(エツキ=労役)を許しました。長く唐の地で苦しんだことを慰労しました。
4月28日。持統天皇は吉野宮に行きました。

5月3日。大錦上の秦造綱手(ハダノミヤツコツナテ)に詔(ミコトノリ)して、姓を与えて忌寸(イミキ)としました。
5月4日。吉野から帰りました。
5月8日。直広肆を尾張宿禰大隅(オワリノスクネオオスミ)に授けました。合わせて水田40町を与えました。
5月13日。直広肆を大狛連百枝(オオコマノムラジモモエ)に贈りました。合わせて賻物(ハブリモノ=遺族に贈る香典のようなもの)を与えました。
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解説

二槻宮(フタツキノミヤ=両槻宮)
二槻宮は斉明天皇が、民に誹謗されつつ建てた宮。斉明天皇の時代、つまり天智天皇が中大兄皇子として、実質的に政治を取り仕切っていた時代です。持統天皇がこの二槻宮にいくというのはどういう意味なのか。
持統天皇は天武天皇の妻であり、同時に天智天皇の娘でもあります。
もしも持統天皇が度々「吉野宮」に行幸するのが、天武天皇の威光を借りるためならば、二槻宮への行幸もやはり天智天皇の威光を借りるものということになります。
本当かな?

唐の地で苦しんだ
百済の救援で唐の捕虜になったのでしょう。
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