ヤマトヒメ

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ヤマトヒメ

漢字・読み倭比売命
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概要

まとめ
●垂仁天皇と皇后ヒバスヒメの娘。
ヤマトタケルの九州遠征では女装衣装を授けた。
ヤマトタケルの関東遠征では草薙の剣と火打石を授けた。
●伊勢にアマテラスが鎮座した時に同行していた。
●伊勢の最初の斎宮で、斎宮制度の始まりと見られる。

物語・由来

ヤマトヒメは垂仁天皇氷羽州比売命(ヒバスヒメ…日本書紀では日葉酢姫)の娘。
伊勢神宮の最初の斎宮
伊勢神宮の神は現在はアマテラスですが、ヤマトヒメの時代…垂仁天皇の時代はおそらく3世紀の後半ではないかと思いますが、このころはアマテラスを祀っていたとは考えられていません。何を祀っていたのかは不明です。ともかく、ヤマトヒメはその時代に伊勢の神を祀る斎宮として勤めていたわけです。しかも、日本書紀では伊勢にアマテラスが鎮座したきっかけの女性で、伊勢の周囲で騒ぐ蝦夷をどうにかしなさいと朝廷に申し出ているので、実質「伊勢のトップ」と考えて差し支えないと思います。
ヤマトタケルのサポート
オウス・ヤマトオグナ・ヤマオトタケルと様々な名前がある日本の英雄に九州への遠征の時は、女装衣装を授け、関東遠征の際は、草薙の剣と火打石を授けるという名サポートを行っています。
アマテラス鎮座の経緯
アマテラスはあちこちを移動し、最終的に伊勢に鎮座したという経緯があります。伊勢に鎮座した時に同行していたのがヤマトヒメということになっています。
ヤマトヒメが伊勢に導いたと言っていいでしょう。伊勢は大和から見て東の良港です。海上貿易の要所だった。だから伊勢神宮とアマテラス…皇祖を結びつけた。アマテラス信仰が比較的新しいものであったとしても、鎮座の経緯が「嘘」ということは無いでしょう。何かしらの政治的な判断があったハズです。問題は、その政治的な役割を皇女が果たしたということです。古代では女性が政治的に強い影響を持っていたのだと思います。
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ヤマトヒメの意味

ヤマトヒメという名前は、大和の皇女というザックリとした意味で、垂仁天皇の娘以外にも「ヤマトヒメ」という名前がついた皇女は何人か見られます。

古事記の引用

垂仁天皇の后妃と御子
また旦波比古多々須美知宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシ)の女、氷羽州比売命(ヒバスヒメ)を娶って産んだ子供が、
印色入日子命(イニシキノイリヒコ)、
大帯日子淤斯呂和気命(オホタラシヒコオシロワケ=景行天皇)、
大中津日子命(オホナカツヒコ)、
倭比売命(ヤマトヒメ)、
若木入日子命(ワカキイリヒコ)
の5柱です。

垂仁天皇の系譜
倭比売命(ヤマトヒメ)は伊勢神宮の斎宮となりました。

オウス命は倭比売命から援助を受ける
オウス命は叔母の倭比売命(ヤマトヒメノミコト)の衣服をもらいうけ、剣を懐に入れていきました

草那芸剣と袋を受け取る
ヤマトタケルは景行天皇からの命令を受けて、東国へと向かう途中、伊勢神宮へと参拝しました。
そこで叔母である倭比売命(ヤマトヒメ)に言いました。
景行天皇はわたしに死ねと思っているのでしょうか??
どうにか西の悪い人達を撃ち、帰ってきたというのに、間を置かずに兵士もつけずに、また東の悪い人たちを平定に派遣するのでしょうか??
やはり、わたしなど死ねと考えているのではないでしょうか??」
ヤマトタケルが憂い泣いていると、ヤマトヒメは草那芸剣(クサナギノツルギ)と袋をヤマトタケルに渡しました。
「もし、危険になったら、袋を開けなさい」
と言いました。

焼津の火攻め
叔母のヤマトヒメから貰った袋を開けてみました。
袋には火打石がありました。
そこでまずクサナギの剣で草を刈り、火打石で火をつけ、迎え火をして、火を退かせました。
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日本書紀からの引用

垂仁天皇(十一)五(イツトリ)の女
皇后の日葉酢姫(ヒバスヒメ)は三人の男の子と二人の女の子を生みました。第一子は五十瓊敷入彦命(イニシキイリビコノミコト)といいます。第二子は大足彦尊(オオタラシヒコノミコト)といいます。第三子は大中姫命(オオナカツヒメノミコト)といいます。第四子は倭姫命(ヤマトヒメノミコト)といいます。第五子は稚城瓊入彦命(ワカキニイリビコノミコト)といいます。

垂仁天皇(十五)大神は鎮座する国を探して彷徨う
(即位25年)3月10日。
天照大神(アマテラスオオミカミ)を豊耜入姫命(トヨスキイリビメノミコト)から離し、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)をつけました。倭姫命は大神を鎮座する場所を求めて、菟田(ウダ)の筱幡(ササハタ)に至りました。

引き返して近江国へと入り、東の美濃を巡って、伊勢国に至りました。そのとき天照大神は倭姫命に教えました。
「この神風(カムカゼ=伊勢の枕詞)の伊勢国は、常世の国からやってくる浪(ナミ)が、重浪(シキナミ=繰り返し繰り返し浪がくること)して帰(ヨ)せる国です。傍国(カタクニ=側の国…大和のそばの国)で、可怜国(ウマシクニ)です。この国にいたいと思う」
と言いました。
そこで大神の教えた通りに祠(ヤシロ)を伊勢国に立てました。それで斎宮(イワイノミヤ)を五十鈴川の川上に立てました。磯宮(イソノミヤ)といいます。天照大神が初めて天より降りた場所です。

垂仁天皇(十六)もう一つの天照大神の祭祀物語
ある書によると…
天皇は倭姫命(ヤマトヒメノミコト)を御杖(ミツエ=依り代と同じ意味)として、天照大神に奉りました。それで倭姫命は天照大神を磯城(シキ=地名)の嚴橿(イツカシ=神の依代となる木)の根元に鎮座して祀りました。その能登に神の教えの通りに即位26年冬10月に伊勢国の渡遇宮(ワタライノミヤ)に移りました。

景行天皇(三十一)東征の前に日本武尊は伊勢神宮へ
(即位40年)冬10月2日。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は発路(ミチダチ)しました。
10月7日。寄り道して伊勢神宮(イセノカミノミヤ)を参拝しました。それで倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に会って言いました。
「今の天皇から命を受けて、東に行って諸々の叛くものを討つことになっています。だから之を辞したい」
それで倭姫命は草薙剣(クサナギノツルギ)を取って、日本武尊に授けて言いました。
「慎みなさい。
怠ってはいけません(油断してはいけません)」

景行天皇(四十四)無礼な蝦夷は熱田から三輪山へ
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が佩(ハ=帯刀するという意味)いた草薙横刀(クサナガチノツルギ)は現在、尾張国(オワリノクニ)の年魚市郡(アユチノコオリ=愛知のこと)の熱田社(アツタノヤシロ)にあります。ここに神宮に献上した蝦夷たちは昼夜に鳴り騒いで、出入礼(イデイリイヤ)無し(=非常に無礼)でした。
そこで倭姫命(ヤマトヒメノミコト)はいいました。
「この蝦夷たちは、神宮の近くにいるべきではない」
すぐに朝廷(ミカド)に意見を報告しました。
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