イツセ

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イツセ

漢字・読み五瀬命・彦五瀬命
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概要

まとめ
神武天皇の兄で、ウガヤフキアエズタマヨリヒメの第一子。
●古事記では五瀬命、日本書紀では彦五瀬命。
●古事記・日本書紀を素直に読むと、イツセが死亡するまでは一行のボスはイツセに見える。
●東征の途中でナガスネヒコ(=トミビコ)に矢を射られて、その傷が元で死亡。
●死亡した場所が紀伊国の男乃水門。

物語・由来

ウガヤフキアエズタマヨリヒメの第一子。古事記では五瀬命、日本書紀では彦五瀬命。神武東征で東に向かい、ナガスネヒコの矢を受けてその後、死亡する。4人兄弟で上の3人が死亡し、末っ子の神武天皇(=ワカミケヌ)だけになり、大和に入って即位する。

古事記や日本書紀は後々に描かれたものなので、神武天皇を中心に据えて見るのが当然だけども、物語を素直に読むと、イツセが死亡するまではイツセが神武一行のボスに思える。
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解説

末子相続
よく天皇や日本神話は「末子」が継承するという「末子相続」だという話が言われます。で、どうして末子相続なのかというと、海洋民族や遊牧民のように移動を常にする人たちは、成人すると子供が独り立ちしていって出ていくので、最後に家に残るのが末子しかおらず、末子が家を相続していくのが「普通」だから!というのがあります。神武東征で神武天皇が家を継ぐという物語は、この仮説を物語上で立証しているとも言えなくも無い。

日本書紀では異説を「一書」という形式で書いています。そこでイツセたち兄弟の異説も書かれているんです。その兄弟の生まれる順は異説でまちまちなのですが、イツセだけは決まって長男。もしかしたら「イツセ」というのは、長男であるべき、何かしら理由があるのかもしれません。
●例えばイツセと言う言葉自体が暗に「第一子」という意味合いがあるとか。

九州の五ケ瀬川との関係
五瀬命(イツセノミコト)は九州の「五瀬川(ゴカセガワ)」と関係があるのかもしれません。五ケ瀬川の上流にあるのが高千穂神社です。その高千穂神社にはイツセの弟のミケヌが神武東征の途中で離脱後に九州に帰って、その土地にいた「鬼八」という鬼を退治する伝承が残っています。
もう一つ、伊勢との関係
伊勢神宮がある「伊勢」は、「五十瀬」が語源です。伊勢はなぜ、イツセと同じ語源なのでしょうか。素直に考えれば、九州のイツセ(五瀬川)の人たちが移住した先が「伊勢」となったのでしょう。
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古事記からの引用

ウガヤフキアエズの子供達
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズ命)は、その叔母(母親の妹)の玉依毘売命(タマヨリヒメ命)を娶って、
産んだ皇子の名前は五瀬命(イツセノミコト命)、
次に稲氷命(イナヒノミコト命)、
次に御毛沼命(ミケヌノミコト命)、
次に若御毛沼命(ワカミケヌノミコト命)…

平安に統治するために東へ
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ命)はその兄の五瀬命(イツセ命)と二柱で、高千穂宮(タカチホノミヤ)に居て、相談して言いました。
「どこの土地ならば、平安に天下を統治できるだろうか?
やはり東に行こうと思う」
すぐに、日向から出発して筑紫に行きました。

亀に乗って釣りをしている人に速吸門で出会う
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ命)と五瀬命(イツセ命)が東へと向かっている途中で、亀の甲羅に乗って釣りをして、袖を振って来る人に速吸門(ハヤスイノト)で出会いました。

盾を取り出して戦いました
那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)が戦いを挑んできたので、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ命)と五瀬命(イツセ命)は船から「盾」を取り出して船から下りて戦いました。

手痛い矢を受けるイツセ命
登美毘古(トミビコ=ナガスネヒコ)と戦ったとき、
五瀬命(イツセ命)は手に登美毘古の痛矢串(イタヤグシ=矢を受けた傷)を負いました。
傷を受けたとき、五瀬命(イツセ命)は言いました。
「わたしは日の神の皇子なのに
日に向かって戦ってしまった。
これは良くなかった。
だから、卑しい奴に痛手を負わされた。
これからは回り道をして、太陽を背にして戦おう」
と誓い、南から回って血沼海に到着して
その手の血を洗いました。

紀伊国の男乃水門で死亡
その地(地沼海)から更に回って、紀伊国の男乃水門(オノミナト)に着いて言いました。
「卑しい奴によって、手に傷を負って、死ねるか!」
と雄雄しく振舞いましたが、
死んでしまいました。
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日本書紀からの引用

第十一段本文彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の系譜
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)はその叔母(母の豊玉姫の妹)の玉依姫(タマヨリヒメ)を妃として、彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)を産みました。
次に稻飯命(イナイイノミコト=稲飯命)を産みました。
次に三毛入野命(ミケイリノノミコト)を産みました。
次に神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)を産みました。

第十一段一書(一)(二)(三)(四)系譜の異伝
全ての異伝でも五瀬命は長子として生まれている。

戊午年夏四月 退却の判断
そのとき長髄彦(ナガスネヒコ)が(神武天皇が大和へ来るという話を)聞いて言いました。
「それは天神子等(アマツカミノミコタチ)が来るのは、我が国を奪おうとしているに違いない」
それで(長髄彦は)侵略に対する兵を集めて、孔舍衞坂(クサエノサカ)で迎え撃ち、戦いになりました。その戦いで流れ矢が神武天皇の兄の五瀬命(イツセノミコト)の肱脛(ヒジハギ=ヒジのこと)に当たりました。

五月丙寅朔癸酉 五瀬命の雄叫びと死
その時、五瀬命(イツセノミコト)の矢の傷がとても痛みました。撫劒(ツルギノタカミトリシバリ=剣の柄を握って)して雄叫びしました。
「なんてことだ!!!!
男が、敵に傷を負わされて、やり返さずに死んでしまうのか!」
世の人たちは、それからこの(イツセ命が雄叫びした)場所を「雄水門(オノミナト)」と呼ぶようになりました。
軍を進めて紀伊国の竃山(カマヤマ)に到着したとき、五瀬命(イツセノミコト)は亡くなってしまいました。なので竈山で葬りました。
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