道臣命(ミチノオミノ命)

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道臣命

漢字・読みミチノオミノ命
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道臣命(ミチノオミノ命)

古事記でも日本書紀でも「道臣命」。
日本書紀では「日臣」だったものが道案内をしたことで道臣命と改名したとある。
古事記でも日本書紀でも大伴連(オオトモノムラジ)の祖先と書いてある。

古事記も日本書紀もハッキリとは書かれていないけども、大伴連(オオトモノムラジ)の祖先であるということは自動的に「天忍日命(アメノオシヒノミコト)の子孫」ということ。天忍日命はニニギの天孫降臨の際に弓矢と武具を身につけていた神です。
参考天忍日命と天津久米命

太陽との関係

日本書紀で最初に登場するのは神武天皇熊野ヤタガラスの先導を受けた時、先陣を切ったのが日臣(ヒノオミ)。日臣の功績を讃えて「道臣」という名前を与えたことが道臣の由来。となると道臣はそもそもは太陽神か、太陽神を祀る氏族だったと考えた方が自然です。道臣の先祖の神である「天忍日命」も名前から考えれば「太陽神」です。
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解説

日本書紀では神武天皇から嚴媛(イツヒメ)という名前を授けられていることから、女性だった可能性もあるのではないかと。道臣命が男性だと言い切れる証拠はないし、大山祇神のように本来は女性でも男性的に扱われている神もいる。

また「齋主」に任命されていることを考えても、道臣と子孫の大伴氏は「宗教的」な有力紙族と考えた方が自然に思う。一般的定説では「武の氏族」ではあるのですが。大伴氏と久米氏がセットになっているのは、どちらも宗教的な呪術や「祀り方」を持った氏族だったからではないかと思います。
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古事記からの引用

道臣命と大久米命
大伴連(オオトモノムラジ)の祖先の道臣命(ミチノオミノ命)と久米直(クメノアタイ)の祖先の大久米命(オオクメノ命)の二人が兄宇迦斯(エウカシ)を呼びつけて罵りました。

日本書紀からの引用

六月乙未朔丁巳(三)ヤタノカラスと日臣と道臣
この時、大伴氏(オオトモノウジ)の祖先の日臣命(ヒオミノミコト)は大來目(オオクメ)を率いて、元戎(オオツワモノ)督將(イクサノキミ=将軍の意味)として、山を踏み開いて進み、鳥(=ヤタノカラス)の向かう所を探し、見上げて追いかけました。
ついに菟田下縣(ウダノシモツコオリ)に達しました。道を穿(ウガ=かき分けて進むこと)ってたどり着いたので菟田穿邑(ウダノウガチノムラ)といいます。
穿邑は于介知能務羅(ウガチノムラ)といいます。
神武天皇は日臣命(ヒノオミノミコト)を褒めて言いました。
「お前は、忠心があり、勇敢。
それに先導をつとめた。
これより、お前の名前を改めて道臣(ミチノオミ)としよう」

秋八月甲午朔乙未(一)兄猾と弟猾
天皇はすぐに道臣命(ミチノオミノミコト)を派遣して、その逆(サカシマゴト=反逆)の状況を調べました。それで道臣命(ミチノオミノミコト)は兄猾(エウカシ)に敵対すると心があることを確信して、とても怒り、兄猾(エウカシ)に叫びました。
「野郎!!
お前が作った小屋に、お前自らが入ってみろ!」
爾は飫例(オレ)と読みます。
道臣命(ミチノオミノミコト)は剣の柄を握り、弓を引いて、兄猾(エウカシ)を追い立て小屋に無理矢理に脅して入れた。兄猾(エウカシ)は天に罪を見抜かれて、言い訳も出来ませんでした。兄猾(エウカシ)は自分から小屋で罠を踏んで、死んでしまいました。


九月甲子朔戊辰(四)嚴媛と名付ける
天皇は道臣命(ミチノオミノミコト)に命令しました。
「今、高皇産靈尊(タカミムスビノミコト)を私自らが、祀ろう。お前(=道臣命)を齋主(イワイノヌシ=祀るもの…神主のこと)として、嚴媛(イツヒメ)と名付けよう。この土の瓶(カメ)を嚴瓮(イツヘ)としよう。この火の名前を嚴香來雷(イツノカグツチ)としよう。水の名を嚴罔象女(イツノミツハノメ)としよう。食べ物の名前を嚴稻魂女(イツノウカノメ)としよう。薪の名前を嚴山雷(イツノヤマツチ)としよう。草の名前を嚴野椎(イツノヅチ)としよう」

辛酉年春正月庚辰朔 神武天皇が帝位に
初めて天皇は天基(アマツヒツギ=天津日嗣=皇統)をはじめた日に大伴氏の遠祖の道臣命(ミチノオミノミコト)が、大來目部(オオクメラ)を率いて、密かに命じられて、諷歌倒語(ソヘウタ・サカシマゴト)を行って、妖気(ワザワイ)を祓いました。倒語(サカシマゴト)を使ったのはこれが初めてでした。

冬十月癸巳朔(二)道臣命の密命と歌
(既に敵は撃破したのですが)残りの敵がまだ多くて、その数が解りませんでした。そこで密かに道臣命(ミチノオミノミコト)に命じました。
「お前は大來目部(オオクメラ)を引き連れて、大室(オオムロ)を忍坂邑(オシサカノムラ)に作り、そこで宴饗(トヨノアカリ=宴会のこと)を盛大に催して、敵を誘い寄せて討ち取れ」
道臣命(ミチノオミノミコト)は密命を受けて、忍坂(オシサカ)を掘って室(ムロ)を立てて、勇猛な兵士を選んで、敵兵を混ざって座りました。そして陰で命じました。
「酒酣(サケタケナワ…今で言う所の『宴もたけなわ』)の後、わたし(=道臣命)は立ち上がり、歌を歌う。お前たちは、私の声を聞いたらすぐにいっせいに敵を刺せ」
座る場所に座って酒盛りしました。敵は密命を知らず、心のままに、ほしいままに酔いました。
そして道臣命(ミチノオミノミコト)は立ち、歌を歌いました。

二年春二月甲辰朔乙巳 定功行賞
天皇は論功行賞(イサヲシキヲサダメタマヒモノヲオコナイタマフ=東征に貢献したものに報償を与えること)を行いました。道臣命(ミチノオミノミコト)に宅地(イエドコロ)を与えました。それは築坂邑(ツキサカノムラ=橿原市鳥屋町)で、特に道臣命の功績を評価しました。

継体天皇(二十七)磐井の人間性・道臣から室屋まで帝を助け
その磐井は西の戎(ヒナ=イミンゾク)の姧猾(カダマシキヤツコ=ひねくれたやつ)です。川が阻(サガシキ=邪魔して)ことを理由に朝廷に仕えません。山が高いからと乱を起こすのです。徳(イキオイ=道徳)を破って、道に反くのです。人を侮辱し高慢で、自分を賢いと思っているのです。昔、道臣(ミチノオミ)から室屋(ムロヤ)に至るまで帝を助け守って罰を与えてきました。民が塗炭(クルシキ=塗炭の苦しみというように塗炭は炭で焼かれること)を救ってきました。今も昔も同じです。

継体天皇(三十八)即位24年春2月1日の詔
即位24年春2月1日。詔(ミコトノリ)して言いました。
磐余彦(イワレビコ=神武天皇)の帝・水間城之王(ミマキノキミ=崇神天皇)から、皆、博識な臣の明晰で賢い助けに頼ってきた。道臣(ミチノオミ)が計画を述べて、神日本(カムヤマト=神武天皇?)で盛りとなりました。
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