畝火・畝傍(ウネビ)

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ウネビ

漢字・読み畝火・畝傍
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畝火・畝傍(ウネビ)

古事記では畝火。
日本書紀では畝傍。
奈良県橿原市の畝傍山の周辺のこと。
ウネビの意味
畝は畑で作物を植える土を盛り上げたところ。畝を作ることで、水はけを良くして、植物を育てやすくするもの。畝傍山の山の連なりを畝となぞらえたのかもしれない。「火」は畝傍山を「火山」だと思っていたからとも言われています。もしくは火は野火の事かも。作物を植えた後に、草に火を放って焼く。その炭を土に混ぜ込む事で土壌改良になる。野火を放つと言う神話は日本神話に見られる。オオナムチスサノオの試練を受けるシーンがあります。

また、ヤマトタケルが焼津で火攻めを受けたのもそうです。

畝傍は神武天皇が宮を開いた場所で、その後も度々登場します。
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畝傍の意味

畝傍という地名には農業が由来になっていると考えて差し支えないよう。
その土地で神武天皇が宮を置いたということは、神武天皇自身が穀物神という性質があったか、組織が農業を重視していたか、その両方か、ともかく農業が鍵になっていたからでしょう。

古事記からの引用

ニギハヤヒが宝を献上する
イワレビコはそうして荒ぶる神を説得して平定し、抵抗するものを撃退し、畝火(ウネビ)の白祷原宮(カシハラノミヤ)で天下を治めました。

タギシミミの反逆
その三柱の親であるイスケヨリヒメは思い悩み苦しみ、歌で子供たちに計画を教えました。その歌が
「狭井河から雲が立ち上がり、畝火山の木の葉はざわめいています。嵐が来ようとしています」
また歌った歌が
畝火山では昼間は雲が流れ、夕方には嵐の前触れとして木の葉が騒いでいる」

神武天皇とイスケヨリヒメの子孫
神沼河耳命(カムヌナカワ命=綏靖天皇)は天下を治めました。
神倭伊波礼毘古天皇(カムヤマトイハレビコノスメラミコト=神武天皇)の享年は137歳。墓は畝火山の北の白梼尾(カシノオ)の上にあります。

安寧天皇
安寧天皇は49歳で亡くなりました。
お墓は畝火山の美富登(ミホト)にあります。

懿徳天皇
懿徳天皇は45歳で亡くなりました。
お墓は畝火山の真名子谷の近くにあります。
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日本書紀からの引用

三月辛酉朔丁卯 六合を一つにして八紘までを家にする
そこで山林を開き、宮殿を造って、天皇の地位について、民を静めよう。乾靈(アマツカミ=天津神)の国を授けられた徳に答え、皇孫の正しい道を広めよう。その後に六合(クニノウチ=東西南北と天と地を合わせて六合)を一つにして都を開き、八紘(アメノシタ=北・北東・東……と合わせて八方向のこと)の隅々まで「宇(イヘ…家)」にすることは、良いことだ。見ると畝傍山の東南の橿原(カシハラ)は国の墺(モナカ…真ん中)だろうから、ここを治めよう」

辛酉年春正月庚辰朔 神武天皇が帝位に
畝傍(ウネビ)の橿原(カシハラ)に宮柱(ミヤハシラ=宮殿の柱)を底磐(シタツイワ=柱を支える岩)の根元にしっかりと立てて、高天原(タカマガハラ)に峻峙(チギ=宮殿の屋根で木材が交差する部分)が届くくらいに高くしよう。
始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラミコト=初めて国を治めた天皇)である私は、神日本磐余彦火々出見天皇(カムヤマトイワレビコホホデミノスメラミコト)と名乗ることにしよう」

二年春二月甲辰朔乙巳 定功行賞
大來目(オオクメ)には畝傍山(ウネビヤマ)の西の川原の土地に住まわせました。それで今、そこ土地を來目邑(クメノムラ)と呼ぶのはそのためです。
珍彦(ウズヒコ)は倭国造(ヤマトノクニノミヤツコ)に任じました。

卌有二年春正月壬子朔甲寅 神武天皇の崩御
神武天皇が即位して76年の春3月11日。
天皇は橿原宮(カシハラノミヤ)で崩(カムアガリ=神になって天に上がる=死ぬ)しました。そのときの年齢は127歳でした。翌年の秋9月の12日に畝傍山の北東の稜(ミサギ=墓)に埋葬しました。

綏靖天皇(四)婚姻と系譜
即位四年の夏四月に神八井耳命(カムヤイミミノミコト…綏靖天皇の兄)が崩(カムアガリ=神になって天に昇る…死ぬこと)となりました。畝傍山(ウネビヤマ)の北に葬りました。

懿徳天皇(日本書紀)
安寧天皇38年のとくに、磯城津彦玉手看天皇(=安寧天皇)が崩(カムアガリ=神になって天に上がる…死ぬこと)しました。懿徳天皇元年の春2月4日に皇位につきました。秋8月に磯城津彦玉手看天皇(=安寧天皇)を於畝傍山南御陰井上陵(ウネビヤマノミナミノミホトノイノヘノミサギ)に葬りました。

孝昭天皇(日本書紀)
懿徳天皇34年秋9月に大日本彦耜友天皇(=懿徳天皇)が崩御しました。翌年の冬10月13日に大日本彦耜友天皇(=懿徳天皇)を畝傍山南纎沙谿上陵(ウネビヤマミナミノマナゴノタニノカミノミササギ)に葬りました。


允恭天皇(二十)うねめはや、みみはや…で誤解されて
(即位42年)冬11月。新羅の弔使(トブライノツカイ=弔いの使者)たちは喪礼(ミモノコト)の儀式や音楽を終わりにして帰ることにしました。新羅人は京城のほとりの耳成山(ミミナシヤマ)と畝傍山(ウネビヤマ)を愛でました。

推古天皇(四十)最古の官道、竹内街道
即位21年冬11月。掖上池(ワキノカミノイケ=奈良県御所市井戸)・畝傍池(ウネビノイケ=奈良県高市郡畝傍)・和珥池(ワニノイケ)を作りました。また難波から京(ミヤコ)まで大道(オオチ=現在の竹内街道?)を置きました。

舒明天皇(十三)境部摩理勢とその子供たちの死
この兄にあたる毛津(ケツ)だけが尼寺の瓦舎(カワラヤ)に逃げ隠れました。すぐに一人、二人の尼を犯しました。一人の尼が嫉妬して表沙汰にしました。寺を軍が囲んで捉えようとしました。すると毛津は寺を出て、畝傍山(ウネビヤマ)に入りました。

皇極天皇(三)蘇我蝦夷は畝傍の家で翹岐たちと対話する
10日。蘇我大臣(=蘇我蝦夷)は畝傍(ウネビ)の家で百済の翹岐たちを呼び寄せました。自ら、向かい合って対話をしました。それで良馬を1匹、鉄20挺を与えました。ただ塞上(サイジョウ=百済王の子で豊璋の弟)だけは呼びませんでした。

皇極天皇(二十四)上の宮門と谷の宮門・東方の儐従者
大臣(蘇我蝦夷)は長直(ナガノアタイ)に大丹穂山(オオニホノヤマ=奈良県高市郡入谷村=奈良県高市郡明日香村入谷)に桙削寺(ホコヌキノテラ=大和国高市郡丹生谷)を作らせました。また家を畝傍山の東に立てました。池を掘って城としました。庫(ツワモノグラ)を立てて、矢を積み、蓄えました。常に50人の兵士を身の回りに巡らし、出入りさせました。
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