比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)

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比古伊佐勢理毘古命

漢字・読みヒコイサセリビコノミコト
別名大吉備津日子命(オオキビツヒコノミコト)・彥五十狹芹彦命(ヒコイサセリビコノミコト)・吉備津彦命(キビツヒコノミコト)
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比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)

古事記では孝霊天皇(7代)と意富夜麻登玖邇阿礼比売(オオヤマトクニアレヒメ)の子。
古事記での名前は比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)。別名が大吉備津日子命(オオキビツヒコミコト)。

日本書紀では孝霊天皇と倭国香媛(ヤマトノクニカヒメ)の子。
日本書紀での名前は彦五十狹芹彦命(ヒコイサセリビコノミコト)。別名が吉備津彦命(キビツヒコノミコト)。
まとめ
孝霊天皇(7代)の子。
日本書紀では崇神天皇の時代に四道将軍として西道に派遣されている。
●古事記では崇神天皇の時代には派遣されていない。
●古事記では孝霊天皇の時に針間(ハリマ)の氷河(ヒカワ)に派遣されて、吉備国を平定した。
●日本書紀では吾田媛(アタヒメ)の討伐・出雲振根(イズモノフルネ)の討伐にも登場する。
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解説

比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)は桃太郎の元ネタともされます。彼が吉備津彦と呼ばれるのは吉備と関係しているからです。日本書紀では崇神天皇(10代)の時に四道将軍として吉備津彦を西道(吉備方面)に派遣していますが、古事記では孝霊天皇(7代)の時に針間(ハリマ)の氷河(ヒカワ)に派遣されて吉備国を平定したとあります。

日本書紀では四道将軍としての吉備平定以外にも、武埴安彦(タケハニハスヒコ)の反乱の際の、吾田媛(アタヒメ)の討伐。出雲振根(イズモノフルネ)の討伐などでも登場します。

比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)と大吉備津日子命ならば、どちらがこの人物の本質をよく表現しているのかというと「大吉備津日子命」の方ですよね。比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)は本名で、大吉備津日子命はあだ名。あだ名は正式ではないけども、そのものを適切に表しているわけです。

比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)の最初と最後のヒコは「日子」で太陽の使者、太陽の子という意味で、この時代まで来ると深い意味はないのではないかと思います。「イ」は「五十」で「多い」という意味で、「サセリ」は、よくわかりませんが「スセリ」ではないかと。スセリはスサノオの語源でも「荒ぶ」の意味で、荒々しい性質を表しているのではないかと思います。
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出自と子孫

古事記では
孝霊天皇(7代)
意富夜麻登玖邇阿礼比売(オオヤマトクニアレヒメ=ハエイロネ
夜麻登登母母曽毘売命(ヤマトトモモソヒメノミコト)
日子刺肩別命(ヒコサシカタワケノミコト) …利波臣・豊国の国前臣・五百原君・角鹿済直の祖先
比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)…別名が大吉備津日子命(オオキビツヒコノミコト) …吉備上道臣の祖
倭飛羽矢若屋比売(ヤマトトビハヤワカヤヒメ)


日本書紀では
孝霊天皇(7代)
倭国香媛(ヤマトノクニカヒメ…別名を絚某姉【ハヘイロネ】)
倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)
彦五十狹芹彦命(ヒコイサセリビコノミコト)…別名が吉備津彦命【キビツヒコノミコト】
倭迹々稚屋姫命(ヤマトトトワカヤヒメノミコト)

孝霊天皇の皇妃と子供は大量にいるので詳細は大倭根子日子賦斗邇命(オオヤマトネコヒコフトニノミコト)を参考に。
子と子孫
子供の記載なし。
古事記には「吉備上道臣の祖」とある。
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古事記からの引用

孝霊天皇
また意富夜麻登玖邇阿礼比売(オオヤマトクニアレヒメ)を娶って産んだ子供が
夜麻登登母母曽毘売命(ヤマトトモモソヒメノミコト)
日子刺肩別命(ヒコサシカタワケノミコト)
比古伊佐勢理毘古命(ヒコイサセリビコノミコト)――別名を大吉備津日子命(オオキビツヒコノミコト)
倭飛羽矢若屋比売(ヤマトトビハヤワカヤヒメ)
の4柱です。
……
大吉備津日子命(オオキビツヒコノミコト)と若建吉備津日子命(ワカタケキビツヒコノミコト)は協力して針間(ハリマ)の氷河(ヒカワ)に忌瓮(神を祭るための酒瓶のこと)を置いて、入り口として吉備国を平定しました。
大吉備津日子命(オオキビツヒコノミコト)は吉備の上道臣(カミツミチノオミ)の祖先です。
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日本書紀からの引用

孝霊天皇(日本書紀)
妃の倭国香媛(ヤマトノクニカヒメ…別名を絚某姉【ハヘイロネ】)が、倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)と彦五十狹芹彦命(ヒコイサセリビコノミコト…別名を吉備津彦命【キビツヒコノミコト】)と倭迹々稚屋姫命(ヤマトトトワカヤヒメノミコト)を生みました。

崇神天皇(十二)四道将軍の派遣(日本書紀)
吉備津彦(キビツヒコ=彦五十狹芹彦命=孝霊天皇の子で孝元天皇の弟)を西道(ニシノミチ)に派遣しました。

崇神天皇(十四)武埴安彦と吾田媛を迎え撃つ(日本書紀)
夫婦はそれぞれの行く道を分けました。
夫は山背(ヤマシロ)から、妻は大坂(オオサカ)から、入って帝京(ミヤコ)を襲おうとしました。その時、天皇は五十狹芹彦命(イサセリヒコノミコト=吉備津彦)を派遣して、吾田媛(アタヒメ)の軍を討たせました。

崇神天皇(二十三)氷香戸邊の子の神託(日本書紀)
甘美韓日狹(ウマシカラヒサ)・鸕濡渟(ウカヅクネ)は朝廷に参上して、詳細に状況を説明しました。すぐに吉備津彦(キビツヒコ=崇神天皇からみて祖父の弟)と武渟河別(タケヌナカワワケ=崇神天皇のいとこ)を派遣して、出雲振根(イズモノフルネ)を殺しました。
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