建波邇夜須毘古命(タケハニヤスビコノミコト)

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建波邇夜須毘古命

漢字・読みタケハニヤスビコノミコト
別名建波邇安王(タケハニヤスノミコ)・武埴安彦命(タケハニヤスヒコノミコト)
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建波邇夜須毘古命(タケハニヤスビコノミコト)

ここでは孝元天皇(8代)の皇子について書いています。
イザナミカグツチを生んだ後にイザナミが脱糞して、そのウンコから生まれた神である「ハニヤスヒコ」についてはそちらのページで。

建波邇夜須毘古命(タケハニヤスビコノミコト)は孝元天皇の皇子。
男性。
古事記では「建波邇夜須毘古命」もしくは「建波邇安王」。孝元天皇波邇夜須毘売(ハニヤスビメ)の間に生まれた。同母の兄弟姉妹はいない。
日本書紀では「武埴安彦命(タケハニヤスヒコミコト)」。孝元天皇と埴安媛(ハニヤスヒメ)の間の子。古事記と同様に同母の兄弟姉妹はいない。
崇神天皇の時代に崇神天皇を殺そうとして、勘付かれ、異母兄弟の「大毘古命(オオビコノミコト大彦命)」に鎮圧される。
子孫氏族の記述はない。
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解説

主犯は吾田媛では??
日本書紀では武埴安彦命には吾田媛と言う妻がいて、彼女が反乱を画策したとあります。吾田媛は五十狹芹彦命(イサセリヒコノミコト=吉備津彦)によって殺されます。その後、武埴安彦命が大彦命に鎮圧される。と言うことは、先に嫁が鎮圧されて、その後、夫が鎮圧された訳です。また、武埴安彦命の異母姉の倭迹々日百襲姫の予言によると
天皇の大叔母の倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)は聡明で物知りで、未来の事も分かる人です。その歌の怪(シルシ)を知って、天皇に言いました。
「これは武埴安彦(タケハニヤスヒコ)が謀反(ミカドカタブケ)を起こす表(シルシ)でしょう。私が聞いた所によると、武埴安彦(タケハニヤスヒコ)の妻の吾田媛(アタヒメ)は密かに倭の香山(カグヤマ)に来て、土を取り、領巾(ヒレ=女性が襟から肩にかけた布)の頭(ハシ)に包んで呪いを掛けて『これは倭国(ヤマトノクニ)の物実(モノシロ…モノは霊、シロは代表)』と言って、帰って行ったのです。
何か事件があると知りました。速やかに対処しなくては、必ず手遅れとなるでしょう」

と発言していることから、もしかすると反乱の主犯は「吾田媛」なんじゃないかと。少なくともそういう描かれ方をしている…ような気がしないでもない。
ただし、古事記には吾田媛に対応する人物が登場しない。
地元では評価される?
建波邇夜須毘古命は京都府相楽郡精華町の「いずもり」には、建波邇夜須毘古命が「死んだ場所」の石碑が建てられています。現在でも「いごもり祭・綱曳きの式」というタケハニヤスヒコの祭りがあります。どうもタケハニヤスは地元の民に愛されているんです。彼は本当に「謀反者」なのか。まぁ、平将門も地元に祀られているわけで、祀られているから、本当は謀反者じゃない証拠にはならないんですが。
●おそらく地方の神であったタケハニヤスヒコが、その地域が大和朝廷に参加した時に神話として取り込まれたのではないか?と思われます。
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子供と子孫

古事記によると
孝元天皇(8代)
波邇夜須毘売(ハニヤスビメ)…河内青玉(コウチノアオタマ)の娘
建波邇夜須毘古命(タケハニヤスビコノミコト)

日本書紀によると
孝元天皇(8代)
埴安媛(ハニヤスヒメ)…河内青玉繋(カフチノアオタマカケ)の娘
武埴安彦命(タケハニヤスヒコノミコト)

子孫
記述はない。

古事記からの引用

孝元天皇と妻、その子供たち
また河内青玉(コウチノアオタマ)の娘の波邇夜須毘売(ハニヤスビメ)を娶って産んだ子供が
建波邇夜須毘古命(タケハニヤスビコノミコト)です。

伯父と叔父の戦い
大毘古命(オオビコ命)は引き返して、祟神天皇に(歌のことを)伝えました。すると祟神天皇は
「これは山代国にいる、あなた(=オオビコ命)の義兄である、建波邇安王(タケハニヤスノミコ)が、野心を抱いた兆候でしょう。
伯父上(=オオビコ命)。
軍隊をまとめて、出発してください」
……
そして山代の和訶羅河(ワカラガワ)にオオビコ命の軍勢がやってきたときに、建波邇安王(タケハニヤスノミコ)は軍勢を整えて待ち構え、行く手を遮りました。
オオビコ命とタケハニヤス王は和訶羅河(ワカラガワ)を挟んで向かい合い、戦争が始まりました。
それでその土地を「伊杼美(イドミ=挑み)」といいます。現在は今豆美といいます。

まづ忌矢弾つべし
日子国夫玖命(ヒコクニブク命)はタケハニヤス王に言いました。

「まず、そちらから忌矢(イミヤ=神聖な矢)を撃ちなさい」
そこで建波邇安王(タケハニヤス王)が撃ちましたが、当たりませんでした。次に国夫玖命(クニブク命)が矢を撃つと、建波邇安王(タケハニヤス王)にあたり、死んでしまいました。
大将である建波邇安王(タケハニヤス王)が死んでしまったことで、軍勢は総崩れとなり、散り散りになって逃げました。
その逃げる軍を追い詰め、久須婆(クスバ)の渡し場にやってきたときに、タケハニヤス王の軍兵達は、恐ろしくてウンコを漏らしてしまい、褌(ハカマ)に掛かった、そこでこの土地を「クソバカマ(=屎褌)」と言う様になりました。現在は久須婆(クスバ)と呼んでいます。
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日本書紀からの引用

孝元天皇(日本書紀)
次の妃の河内青玉繋(カフチノアオタマカケ)の娘の埴安媛(ハニヤスヒメ)が、武埴安彦命(タケハニヤスヒコノミコト)を生みました。

崇神天皇(十三)謀反の徴(日本書紀)
大彦命はすぐに帰り、詳細に見た事を報告しました。天皇の大叔母の倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)は聡明で物知りで、未来の事も分かる人です。その歌の怪(シルシ)を知って、天皇に言いました。
「これは武埴安彦(タケハニヤスヒコ)が謀反(ミカドカタブケ)を起こす表(シルシ)でしょう。私が聞いた所によると、武埴安彦(タケハニヤスヒコ)の妻の吾田媛(アタヒメ)は密かに倭の香山(カグヤマ)に来て、土を取り、領巾(ヒレ=女性が襟から肩にかけた布)の頭(ハシ)に包んで呪いを掛けて『これは倭国(ヤマトノクニ)の物実(モノシロ…モノは霊、シロは代表)』と言って、帰って行ったのです。

崇神天皇(十四)武埴安彦と吾田媛を迎え撃つ(日本書紀)
そこで更に諸々の将軍(イクサノキミ)を集めて話し合いをしました。まだ幾時(イクバク)も無いうちに、武埴安彦(タケハニヤスヒコ)と妻の吾田媛(アタヒメ)は謀反逆(ミカドカタブケム=皇位を傾ける)しようとして、兵を起こしてたちまちやって来ました。

崇神天皇(十五)埴安彦と彦国葺の戦争(日本書紀)
埴安彦(ハニヤスヒコ)が彦国葺(ヒコクニフク)の軍隊を見て言いました。
「どうして、お前は兵を起こして来るのか?」
彦国葺(ヒコクニフク)は答えました。
「お前は天に逆らい、道に背いている。王室(ミカド)を傾けようとしている。よって義兵(コトワリノイクサ=義勇兵)を挙げ、逆らうお前を討つ。天皇の命だ」
それから各軍は先手を取ろうと弓を射ました。
武埴安彦(タケハニヤスヒコ)がまず、彦国葺(ヒコクニフク)を射ましたが、当たりませんでした。次に彦国葺(ヒコクニフク)が埴安彦を射ると、胸に当たって殺してしまいました。
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