比古由牟須美命(ヒコユスミノミコト)

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比古由牟須美命

漢字・読みヒコユスミノミコト
別名彦湯産隅命(ヒコユムスミノミコト)・彦蔣簀命(ヒコモスノミコト)
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比古由牟須美命(ヒコユスミノミコト)

比古由牟須美命(ヒコユスミノミコト)は開化天皇(9代)の子供。
異母兄弟に崇神天皇(10代)がいる。
父親は開化天皇、母親は古事記では「竹野比売(タカノヒメ)」、日本書紀では「丹波竹野媛(タニハノタカノヒメ)」。
古事記では比古由牟須美命(ヒコユスミノミコト)と表記される。
日本書紀では彦湯産隅命(ヒコユムスミノミコト)…別名を彦蔣簀命(ヒコモスノミコト)としている。

物語・由来

古事記によれば、比古由牟須美命には大筒木垂根王(オオツツキタリネ王)、讃岐垂根王(サヌキタリネ王)という二人の子供がいて、この二人の王には5人の娘がいたとある。二王で合計5人なのか、5人づつなのかは分からないが、常識的に考えて「合計5人」でしょう。
日本書紀にはこれらの二王についての記載はない。

古事記ではこのうち大筒木垂根王の娘の迦具夜比売命(カグヤヒメ)が垂仁天皇(11代)の妃となり「袁耶弁王(オザベノキミ)」を生んでいる。

比古由牟須美命の母親は「竹野」で、比古由牟須美命の孫は「カグヤヒメ」ということになります。カグヤヒメの父親の大筒木垂根王のネーミングも中身が空洞の…つまり筒状になっている竹を示唆しているように見える。竹取物語と一致しているような。偶然でしょうかね。
日本書紀ではヒバスヒメたちの先祖
日本書紀の異説によると、比古由牟須美命(ヒコユスミノミコト)の子供が丹波道主王(タニハノチヌシノオオキミ)で、その子供が垂仁天皇の皇妃となった5人の娘たちです。となると、比古由牟須美命の血統はすごいですね。
名前で考える
日本書紀での彦湯産隅命という字を見ると、温泉の関係の名前なんじゃないかと思いますが、自信はないです。別名の「彦蔣簀命」のうち、「蔣」はイネ科植物のマコモのことで、簀は「すのこ・すだれ」という意味があります。この字が当て字でなく、意味を考慮してつけられたのならば、なーんかやっぱり温泉ぽい名前なんですよね。
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記述と出自

記述
古事記では比古由牟須美命(ヒコユスミノミコト)。
日本書紀では彦湯産隅命(ヒコユムスミノミコト)。別名が彦蔣簀命(ヒコモスノミコト)。
出自
開化天皇(9代)
竹野比売(タカノヒメ)…丹波の大県主の由碁理(ユゴリ)の娘
比古由牟須美命(ヒコユスミノミコト)


日本書紀によると
開化天皇(9代)
丹波竹野媛(タニハノタカノヒメ)…出自の記述なし
彦湯産隅命(ヒコユムスミノミコト)…別名を彦蔣簀命(ヒコモスノミコト)
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子孫

子孫
古事記
比古由牟須美命(ヒコユスミノミコト)
配偶者記述なし
大筒木垂根王(オオツツキタリネ王)
讃岐垂根王(サヌキタリネ王)


大筒木垂根王(オオツツキタリネ王)
配偶者記述なし
迦具夜比売命(カグヤヒメ)…垂仁天皇の后となり袁耶弁王(オザベ) を生んだ。


日本書紀の異説によると
彦湯産隅命(ヒコユムスミノミコト)
配偶者記述なし
丹波道主王(タニハノチヌシノオオキミ)

丹波道主王(タニハノチヌシノオオキミ)
配偶者記述なし
日葉酢媛(ヒバスヒメ)…垂仁天皇の皇后になり景行天皇などを生んだ。
渟葉田瓊入媛(ヌハタニイリビメ)
眞砥野媛(マトノヒメ)
薊瓊入媛(アザミニイリビメ)
竹野媛(タケノヒメ)…ブサイクなので送り返される
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引用

古事記からの引用
開化天皇の子供たち
開花天皇が丹波の大県主の由碁理(ユゴリ)の娘の竹野比売(タカノヒメ)を娶って、産んだ子供は比古由牟須美命(ヒコユスミノミコト)です。

開化天皇の孫たち
祟神天皇の兄のヒコユムスミ王(比古由牟須美王)の子供はオオツツキタリネ王(大筒木垂根王)、サヌキタリネ王(讃岐垂根王)の二王です。このニ王には娘が5人いました。


日本書紀からの引用
開化天皇(日本書紀)
これ以前に開化天皇は丹波竹野媛(タニハノタカノヒメ)を妃としていました。妃は彦湯産隅命(ヒコユムスミノミコト…別名を彦蔣簀命【ヒコモスノミコト】)を生んでいました。
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