豊鉏入日売命(トヨスキイリヒメノミコト)

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豊鉏入日売命

漢字・読みトヨスキイリヒメノミコト
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豊鉏入日売命(トヨスキイリヒメノミコト)

豊鉏入日売命(トヨスキイリヒメノミコト)は古事記に登場する皇女。
おそらくは女性。
皇族。
父親は崇神天皇(10代)。
母親は遠津年魚目々微比売…木国造の荒河戸畔(アラカワトベ)の娘。
婚姻や子供の表記もない。
古事記によれば伊勢神宮に入ったとされる。
日本書紀によれば、豊鍬入姫命が、天照大神を大和の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀った後に、磯堅城(シカタキ)に祀ったとある。ただし、天照大神を引き継いで伊勢神宮に祀ったのは倭姫であって、豊鍬入姫命ではない。古事記と違う?のかもしれない(省略されただけなのかもしれないが)。
記述
古事記では豊鉏入日売命(トヨスキイリヒメノミコト)。
日本書紀では豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)・豊耜入姫命(トヨスキイリビメノミコト)。
鉏と鍬は同じ意味の文字ですから、ほぼ表記も読みも同じ。
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物語・由来

天照大神を最初に祀った人物
古事記には「豊鉏比売命(トヨスキヒメノミコト)は伊勢神宮に入りました」とあります。
日本書紀にはより詳細にあります。

崇神天皇の時代に国が荒れた。その荒れた原因が「天照大神(アマテラスオオミカミ)・倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)」を天皇の宮に住まわせていたことにあると考えた。おそらく、当時の信仰は人と神との間に上下がなく、同じ場所で食事をして寝る「神人共食」「同床共殿」だった。これはマズイと考え始めたのが崇神天皇だった。こんな失礼なことしているから、「祟る」のだ。この二つの神を天皇と同じ「宮」ではなく、別々の社に祀らないといけないと考え、それぞれを別々の場所に祀ることにした。

天照大神を豊鉏比売命につけて大和の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀り、その後、磯堅城(シカタキ)に祀った。一方、倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)は同じく崇神天皇の娘の渟名城入姫(ヌナキノイリヒメ)に祀らせた。ところが渟名城入姫は失敗し、髪が抜け落ちてしまった。

次の垂仁天皇の時代に天照大神は豊耜入姫命(トヨスキイリビメノミコト)から倭姫へと祭祀者が変更され、各地を変遷して最後は伊勢に祀られるようになる。
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解説

物語の意味
同じ崇神天皇の娘である渟名城入姫は失敗し、豊耜入姫命はうまく行った。
なぜか?
この時代に「血」の概念が入ったからではないかと思う。
つまり、豊耜入姫命がうまく行ったのは、天照大神の子孫だから。
渟名城入姫が失敗したのは倭大国魂の子孫ではないから。
そしてこの後、「大物主+大田田根子」の物語に繋がって行きます。
大田田根子は大物主の子孫で、大田田根子が大物主を祀ったことで疫病などが止まります。
ここが崇神天皇のというか、天皇の大きな転換になったはずです。
天皇とは天照の子孫だから天皇なのだ、というのはこの時代に生まれたはずなんです。
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出自

古事記によると
崇神天皇
遠津年魚目々微比売…木国造の荒河戸畔(アラカワトベ)の娘
豊木入日子命(トヨキイリヒコノミコト)
豊鉏入日売命(トヨスキイリヒメノミコト)

日本書紀によると
崇神天皇
遠津年魚眼眼妙媛…紀伊国の荒河戸畔(アラカワトベ)の娘
豊城入彦命(トヨキイリビコノミコト)…別名が豊城命(トヨキノミコト)、上毛野君(カミツケノノキミ)・下毛野君(シモツケノノキミ)の始祖
豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)


子孫に関する記述は古事記にも日本書紀にもない。
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古事記からの引用

祟神天皇の后妃と御子
この祟神天皇は木国造である荒河刀弁(アラカハトベ)の娘の遠津年魚目々微比売(トオツアユメマクハシヒメ)を娶って産んだ子供が
豊木入日子命(トヨキイリヒコノミコト)
豊鉏入日売命(トヨスキイリヒメノミコト)
です。
妹の豊鉏比売命(トヨスキヒメノミコト)は伊勢神宮に入りました。

日本書紀からの引用

崇神天皇(二)崇神天皇の皇后と妃とその子供たち(日本書紀)
また妃の紀伊国の荒河戸畔(アラカワトベ)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(トオツアユメマクハシヒメ)
ある書によると大海宿禰(オオアマノスクネ)の娘の八坂振天某邊(ヤサカフルアマイロベ)とも

が、豊城入彦命(トヨキイリビコノミコト)・豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト)を生みました。

崇神天皇(四)疫病で国民の半数が死亡(日本書紀)
これより先に、天照大神(アマテラスオオミカミ)・倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)の二柱の神を天皇が住む宮殿の中に並べて祀っていました。するとこの二柱の神の勢いが強くて畏れおおくて、共に住むのは落ち着かなくなりました。

そこで天照大神(アマテラスオオミカミ)を豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト=崇神天皇の娘)に付けて、倭の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀りました。そして磯堅城(シカタキ=地名か施設名かは不明)に神籬(ヒモロキ=神が降りる場所。後には神社を表す)を立てました。
神籬は比莽呂岐(ヒモロキ)といいます。

日本大国魂神(ヤマトオオクニタマノカミ)は渟名城入姫(ヌナキノイリヒメ=崇神天皇の娘)を付けて祀りました。しかし渟名城入姫は髪が抜け落ちて祀ることが出来ませんでした。

垂仁天皇(十五)大神は鎮座する国を探して彷徨う
(即位25年)3月10日。
天照大神(アマテラスオオミカミ)を豊耜入姫命(トヨスキイリビメノミコト)から離し、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)をつけました。倭姫命は大神を鎮座する場所を求めて、菟田(ウダ)の筱幡(ササハタ)に至りました。
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