菟田(ウダ)

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菟田

漢字・読みウダ
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菟田

菟田は古事記・日本書紀に登場する地名。
ここでは日本書紀の「菟田」表記について記述してあります。
古事記では宇陀
日本書紀では菟田。
古代の日本には表記文字がなく「音」だけの社会でしたから、菟田・宇陀・莵田も皆、感じが違っていても同じ言葉で違いはありません。
比定地
奈良県宇陀郡。
記述
菟田・宇陀・莵田。
ウダという名前の由来は古事記・日本書紀にも書かれていない。
宇陀の穿ち(ウガチ)」という言葉あり、「穿ち」は穴とか真相という意味とされます。宇陀も同じような意味で「境目」という意味じゃないのかとも。神武東征では熊野→吉野→宇陀→磯城で、宇陀の向こうが櫻井や橿原や磯城などの奈良盆地内に入るわけで、宇陀は「境目」ですから、宇陀にはそういう意味があったのかもしれませんが、これは実際のところはなんとも。

菟田の記述は神武東征が最初に登場しますが、神武天皇の時代だけでなく垂仁天皇仲哀天皇・仁徳天皇・雄略天皇・推古天皇・皇極天皇・孝徳天皇・天武天皇・持統天皇とかなり満遍なく登場します。菟田は奈良の中心地に近いのですから、大和朝廷の正史である日本書紀も登場するのは当然なんで、だからと言ってどうこうということではありません。ちなみに雄略天皇時代の菟田御戸部(ウダノミトベ)・皇極天皇時代の菟田諸石(ウダノモロシ)・孝徳天皇の菟田朴室古(ウダノエムロノフル)は「人物名」です。人物名といっても彼らの「菟田」は当然、土地の名前から来た人名ですから、菟田の土地がその時に重要な土地だった証拠でもあります(どの程度重要かはともかくとして)。
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日本書紀からの引用 雄略天皇以前

六月乙未朔丁巳(三)ヤタノカラスと日臣と道臣
この時、大伴氏(オオトモノウジ)の祖先の日臣命(ヒオミノミコト)は大來目(オオクメ)を率いて、元戎(オオツワモノ)督將(イクサノキミ=将軍の意味)として、山を踏み開いて進み、鳥(=ヤタノカラス)の向かう所を探し、見上げて追いかけました。
ついに菟田下縣(ウダノシモツコオリ)に達しました。道を穿(ウガ=かき分けて進むこと)ってたどり着いたので菟田穿邑(ウダノウガチノムラ)といいます。

秋八月甲午朔乙未(一)兄猾と弟猾
秋八月の二日。
天皇は兄猾(エウカシ)と弟猾(オトウカシ)を呼び寄せました。
この二人は菟田縣(ウダノアガタ=地名)の魁帥(ヒトゴノカミ=長)です。

兄猾(エウカシ)は自分から小屋で罠を踏んで、死んでしまいました。そのときに死体を引っ張り出して斬ったところ、血が流れ出、踝(ツブナギ=くるぶしのこと)まで浸かるほどだった。それで、この土地を菟田血原(ウダノチハラ)と言います。

秋八月甲午朔乙未(三)吉野の先住民
この後に神武天皇は、吉野の地を見たいと思い、菟田穿邑(ウダノウガチノムラ)の地から僅かな兵を率いて出発しました。吉野に到着するときに、泉の中から人が出て来ました。その人は光っていて尾がありました。

九月甲子朔戊辰(一)天平瓮と嚴瓮と酒と嚴呪詛
9月5日。神武天皇は菟田(ウダ)の高倉山(タカクラヤマ)の嶺に登って、国中を眺めました。そのときに国見丘(クニミノオカ)の上に敵の八十梟帥(ヤソタケル)が居ました。

九月甲子朔戊辰(三)誓約による飴作りと漁
天皇はとても喜び、すぐにこの土で八十平瓮(ヤソヒラカ)、天手抉(アマノタクジリ)を80枚、嚴瓮(イツヘ)を作って丹生(ニウ)の河の上流に登って、天津神国津神を奉って、菟田川(ウダガワ)の朝の河原に水の泡のように(敵軍が儚いものになる)呪いを掛けて、浸けました。

十有一月癸亥朔己巳(二)椎根津彦の進言
椎根津彦(シイネツヒコ)が計略を言いました。
「今はまず、我らの女軍(メイクサ)を派遣して、忍坂(オシサカ)の道から出陣させます。すると敵はそれを見て、必ず鋭(トキツハモノ=先鋭部隊のこと?)を攻めて来るでしょう。わたしは強い兵を率いて、すぐに墨坂を目指し、菟田川の水を取り、その炭の火に注いで(火を消して)、儵忽(ニハカ=わずかな)な間に、敵の意表をつけば打ち破るのは間違いありません」

二年春二月甲辰朔乙巳 定功行賞
また、弟猾(オトウカシ)に猛田邑(タケダノムラ)を与え、猛田縣主(タケダノアガタヌシ)としました。菟田主水部(ウダノモヒトリラ)の遠祖です。

垂仁天皇(十五)大神は鎮座する国を探して彷徨う
(即位25年)3月10日。
天照大神(アマテラスオオミカミ)を豊耜入姫命(トヨスキイリビメノミコト)から離し、倭姫命(ヤマトヒメミコト)をつけました。倭姫命は大神を鎮座する場所を求めて、菟田(ウダ)の筱幡(ササハタ)に至りました。

仲哀天皇(八)水門の大倉主と菟夫羅媛
天皇はすぐに祈祷して、挾杪者(カジトリ=舵取り)である倭国の菟田の人の伊賀彦(イガヒコ)を祝(ハフリ=役職名)として祭りました。すると船が前に進みました。

仁徳天皇(二十八)雌鳥皇女と隼別皇子の逃避行
雄鯽たちは追いかけて菟田(ウダ)に到着し、素珥山(ソニヤマ)に迫りました。そのときに草の中に隠れて、僅かに免れることが出来ました。急いで逃げて山を越えました。それで皇子は歌を歌いました。

雄略天皇(十三)大悪天皇が寵愛した青と博徳
皇太后は天皇の喜ぶ様子を見て、歓喜しました。さらに人を献上しようと言いました。
「わたしの厨人(クリヤビト=料理人)の菟田御戸部(ウダノミトベ)・眞鋒田高天(マサキタタカメ)のこの二人を加えて宍人部(シシトベ)としていただきたい」
この後、大倭国造吾子籠宿禰(オオヤマトノクニノミヤツコアコゴノスクネ)は狹穗子鳥別(サホノコトリワケ)を献上して宍人部(シシトベ)としました。臣・連・伴・造・国造は後を追って献上しました。

雄略天皇(二十一)三諸丘の大蛇と少子部連蜾蠃と雷
即位7年秋7月3日に天皇は少子部連蜾蠃(チイサコベノムラジスガル)に詔して言いました。
「朕(ワレ)は三諸丘(ミモロノオカ)の神の形を見ようと思う。
別の伝によると、この山の神を大物主神(オオモノヌシノカミ)といいます。
また別の伝によると菟田(ウダ)の墨坂神(スミサカノカミ)だともいいます。

雄略天皇(四十一)直丁の批判から鳥養部が設置される
(即位11年)冬10月。鳥官(トリノツカサ)の禽(トリ)が菟田(ウダ)の人の狗(イヌ)に噛まれて死にました。天皇は怒って黥面(=顔に入れ墨を入れること)にして鳥養部(トリカイベ)としました。
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日本書紀からの引用 推古天皇以降

推古天皇(三十四)十九年夏五月五日、菟田野での薬猟
即位19年夏5月5日。菟田野で薬猟(クスリガリ=鹿の角を取る=鹿茸とも言う)をしました。鶏鳴時(アカツキ=夜明け)になって、藤原池(フジワラノイケ)のほとりに集まりました。会明(アケボノ=日の出)になって出かけました。

推古天皇(三十七)羽田の薬猟
(即位20年)夏5月5日。薬猟をして、羽田(ハタ=大和国高市郡波多郷=現在の奈良県高市郡高取町)に集まり、連なって朝廷に参上しました。その装束は菟田(ウダ)の雁の時のようでした。

皇極天皇(十五)巨勢徳太臣と土師娑婆連は斑鳩宮を襲撃する
山背大兄は馬の骨を取って、内寝(ヨドノ=寝るための建物)に投げおきました。その結果、その妃(ミメ)と子弟(ミウガラ=子供と兄弟)たちを率いて、人のいない隙に逃げて出て、胆駒山(イコマヤマ)に隠れました。三輪文屋君(ミワノフミヤノキミ)・舍人田目連(トネリタメノムラジ)とその娘・菟田諸石(ウダノモロシ)・伊勢阿部堅経(イセノアベノカタブ)が従者として仕えました。

皇極天皇(二十)豊浦大臣の倉にフクロウが子を産む・押坂直の菌の話
倭国ではこんなことを言っていました。
「この頃、菟田郡(ウダノコオリ)の人の押坂直(オシサカノアタイ)の所に一人の童子(ワラワ)がいて、雪の上で嬉しそうに遊んでいた。菟田山(ウダノヤマ)に登って、すぐに紫の菌(タケ=キノコ)が雪の中から抜けて生えているのを見ました。高さは6寸あまり、4町ほどにいっぱいに生えていました……

孝徳天皇(十二)吉備笠臣垂の自首・古人大兄の謀反
中大兄はすぐに菟田朴室古(ウダノエムロノフル)・高麗宮知(コマノミヤシリ)を使って、兵を若干(ソコバク)を率いて、古人大市皇子(フルヒトノオオチノミコ)たちを征討させました。

天武天皇(八)東国へ・最初から従っていた臣・合流した臣・隱駅家を焼く
その日の菟田吾城(ウダノアキ)に到着しました。大伴連馬来田(オオトモノムラジマグタ)・黄書造大伴(キフミノミヤツコオオトモ)は吉野宮から追って到着しました。この時に、屯田司(ミタノツカサ)の舎人の土師連馬手(ハジノムラジウマテ)は従者たちの食べ物を献上しました。

また、美濃王を呼び寄せました。すぐに参上して従いました。湯沐(ユ)の米を運ぶ、伊勢国の駄(ニオイウマ)50匹と、菟田郡家(ウダノコオリミヤケ)のほとりで会いました。そこで米を全部捨てて、歩いていた人を乗せました。

天武天皇(七十六)驎角か・摂津国は白巫鳥・菟田の吾城へ行幸
3月23日。天武天皇は菟田(ウダ)の吾城(アキ)へ行きました。

持統天皇(五十九)行獄徒繋を許し放つ・菟田の吉隠へ
10月11日。持統天皇は菟田(ウダ)の吉隠(ヨナバリ=奈良県桜井市吉隠)に行きました。
10月12日。吉隠から帰りました。
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