大彦命(オオビコノミコト)

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大彦命

漢字・読みオオビコノミコト
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大彦命(オオビコノミコト)

ここでは日本書紀に登場する「大彦命」についてまとめています。
古事記の大毘古命(オオビコノミコト)はそちらを見てください。

父親は孝元天皇(8代)。
母親は欝色謎命(ウツシコメノミコト)。

日本書紀では子供に関する記述はなく、古事記で「子供」として記述がある武渟川別(タケヌナカワワケ)と御間城姫(ミマキヒメ)が登場します。武渟川別(タケヌナカワワケ)は四道将軍として東国へ派遣されています。御間城姫は崇神天皇(10代)の皇后として嫁いで垂仁天皇(11代)などを生んでいます。

日本書紀では子供の記述はないのですが、子孫の記述はあります。
子孫は「阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹々城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣などの七族の始祖」とあります。
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活躍

大彦は崇神天皇(10代)の時代、四道将軍として北陸へと派遣されるのですが、その道中に不思議な少女と出会います。少女は歌を歌います。その歌は崇神天皇の危険を暗示していました。武埴安彦夫婦の反乱です。どうやら武埴安彦(タケハニヤスヒコ)は山背から、妻の吾田媛(アタヒメ)は大坂から攻め入るようです。そこで崇神天皇は五十狹芹彦命(イサセリヒコノミコト=吉備津彦)に吾田媛(アタヒメ)を討たせ、武埴安彦(タケハニヤスヒコ)を大彦命と和珥臣の祖先の彦国葺(ヒコクニフク)に討たせることにしました。
この後の武埴安彦の戦いは、ほぼ彦国葺の手柄なので割愛。

活躍の意味
危険の知らせを受けるのが大彦であるというのは大きな問題です。例えば天皇に強い霊威があるという考えがあるならば、大彦ではなく崇神天皇に危機の知らせ…例えば垂仁天皇(11代)の時のサホビメの事件のように、天皇そのものに神託があってしかるべきでしょう。それが大彦にあった…それが例え「少女から伝わった」という形であれ、大彦を通じて神託があったことは大彦にこそ霊威があるという感覚があったからではないかと思います。

大彦は崇神天皇の皇后になる御間城姫の父親です。
ニニギは大山祇神の娘、コノハナサクヤヒメを娶って、山の神の加護を得ました。
山幸彦は綿津見の神の娘、豊玉姫を娶って海の神の加護を得ました。
神武天皇の東征の際、ナガスネヒコに敗北し、海で嵐に会った時、稻飯命と三毛入野命が「私の母は海神なのに! どうして海でひどい目にあうのだ!」と嘆いています。
崇神天皇の権力の根拠は御間城姫であり、その父親の大彦である!という感覚があったのではないかと思います。もちろん、神武天皇以前は神話性が強くて、10代後の崇神天皇の時代に同様の感覚があったかは怪しいし、一緒に考えて良いのかも分からない。
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稲荷山古墳の鉄剣

埼玉県行田市の埼玉古墳群の稲荷山古墳で出土した鉄剣(稲荷山古墳出土鉄剣)には銘文があって、そこには表には
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比

裏には
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

とある。最初の「意富比垝」が「オオビコ」で「大彦」「大毘古命」と同一人物のことであるとされます。この鉄剣の年代「辛亥年」とは471年、もしくは531年とされます。おそらく471年でしょう。471年の雄略天皇(21代)の治世で先祖が「大彦」であるとする人物「オワケ」が鉄剣を残した。ここには系譜も書かれているのですが割愛。崇神天皇の時代に大彦が四道将軍として北陸に赴き、また息子の武渟川別が東国に派遣されていることを考えても、大彦の子孫(と名乗る人物)が雄略天皇の時代にいても不思議じゃありません。無論、「本当に」大彦の子孫かどうかは分かりません。ポイントとしては、血筋を重んじる社会であり、大彦の子孫であることを鉄剣に金で記して残すべきと考えるほどに、「大彦の血筋」は価値があると考えていたということです。「俺は大彦の子孫なんだぜ」と主張することに権力の根拠を感じられる社会だった…つまり儒教的な感覚を持った社会が雄略天皇の時代の東国にあったということです。東国はのちの時代においても異民族の跋扈する田舎扱いです。それは鎌倉時代でもそうなんですから、雄略天皇の時代もそうだったはず…というわけじゃなかったのではないかと。少なくとも中央貴族が考えるよりは文化が行き渡っていたのではないかと思います。
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日本書紀からの引用

孝元天皇(日本書紀)
即位7年の春2月2日。欝色謎命(ウツシコメノミコト)を皇后としました。后は二柱の男(ヒコミコ)と一柱の女(ヒメミコ)を生みました。
第一子は大彦命(オオヒコノミコト)です。
第二子は稚日本根子彦大日々天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト=開化天皇)です。
第三子は倭迹々姫命(ヤマトトトヒメノミコト)です。
ある書によると、天皇の弟に少彦男心命(スクナヒコオココロノミコト)とも

大彦命(オオヒコノミコト)は阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹々城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣などの七族の始祖です。

崇神天皇(十二)四道将軍の派遣(日本書紀)
(即位10年)9月9日。大彦命(オオビコノミコト=孝元天皇の子で開化天皇の兄)を北陸(クヌガノミチ)に派遣しました。
武渟川別(タケヌナカワワケ=古事記によると大彦命の子)を東海(ウミツミチ)に派遣しました。

9月27日。大彦命(オオビコノミコト)は和珥坂上(ワニサカノウエ=大和国添上郡=奈良県天理市和珥)に到着しました。そのとき少女がいて、歌を歌いました。
ある書では大彦命が山背の平坂(=奈良の北の般若寺坂から木津の間?)に至ったときに、道のほとりに童女(ワラワメ)が居て、歌を詠んだ

御間城入彦(ミマキイリビコ)はや 己が命を
死せむと 窃(ヌス)まく知らぬに
姫遊(ヒメナソ)びすも

崇神天皇(十三)謀反の徴(日本書紀)
大彦命(オオビコノミコト)は怪しいと思い、童女(ワラワメ)に問いました。
「お前が言ったことはどういうことだ?」
童女は答えました。
「言ってません。
ただ歌っただけです」
それでまたさっきの歌を歌い、たちまち見えなくなりました。
大彦命はすぐに帰り、詳細に見た事を報告しました。

崇神天皇(十四)武埴安彦と吾田媛を迎え撃つ(日本書紀)
また大彦(オオヒコ)と和珥臣の祖先の彦国葺(ヒコクニフク)を派遣して、山背(ヤマシロ)に向かわせ、埴安彦を討たせました。
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