太安万侶の墓誌の発見

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太安万侶の墓誌の発見

投稿日時:2017-05-16 11:53:57
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太安万侶の墓誌の発見

1979年1月。竹西英夫(当時61歳)が奈良市此瀬町の畑の茶の木を植え替えるために一本一本、鍬で掘り返していると炭が出てきた。その炭を掘り返していると、直径40センチほどの穴がぽっかりと空き、小さな骨と銅板が出てきた。板には「…太朝臣…」の文字が見られた。のちに専門家によって調べられ銅板には「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之書養老七年十二月乙巳」という文字が書かれていたことがハッキリする。
これが太安万侶の墓の発見です。あと、骨も見つかっているわけです。
●遺骨の一部は太安万侶の子孫が宮司を務める「多神社」へ引き取られ、記念碑を作っています。多神社の神主は「多(オオ)」さん。

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解説

養老7年は723年(癸亥)。古事記の編纂が712年。日本書紀が720年であることを考えると、編纂してしばらくして死亡したということになります。日本書紀の編纂に関わったという伝承などはないので、日本書紀云々は関係ないかもしれませんが。
ちなみに、左京四條四坊は住所。従四位下は位。中級貴族と呼ばれる位です。低くはないが、有力者では確実にない。そういう貴族が抜擢されているということは、古事記の編纂の「価値」はそのくらいの認識だったってことです。日本書紀に舎人親王(舎人皇子)が参加しているのと比べるとね。
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太安万侶の墓誌の発見以前

戦前の日本は古事記・日本書紀の記述が「史実」であるとして、天皇を奉じた国家を運営していましたし、朝鮮半島を併合するときに「神功皇后の朝鮮征伐」を理由として、かつて朝鮮半島は日本だったのだから併合していいものだ、と大義名分にしたのです。だから戦後はその反動で、古事記は偽書、もしくは古事記はデタラメという解釈が一般的でした。
そういう戦争の反動もあるのですが、古事記が偽書というお話は江戸時代からありましたし、何より古事記の記述の多くを割いている出雲が当時、古代に発展していたという「考古学的」証拠がなかったというのも理由です。
古事記は偽書ではないことが明らかに
しかし、こうして太安万侶の墓が発見されたことによって、太安万侶は架空の人物ではなく実際の人物であるということがハッキリしました。しかし、編纂自体が史実だとしても、記述内容が「史実」だとは限りません。この時点ではまだ古事記の記述は「架空・創造」という疑いがありました。
しかし、荒神谷遺跡の発見によって古事記は決してフィクションとは言えないという現在の見解に至るようになります。
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