赤間神宮

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赤間神宮

投稿日時:2017-05-27 15:32:11
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概要

住所
山口県下関市阿弥陀寺町4-1

祭神
安徳天皇
安徳天皇の陵墓である「阿彌陀寺陵」が境内内にある。ただし阿彌陀寺陵に本当に安徳天皇が眠っているかは分からない。あくまで比定されているだけ。
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物語・由来

歴史
創建は貞観元年(859年)に阿弥陀寺として開闢。
つまり安徳天皇とは無関係な「寺」として始まった。
1185年に壇ノ浦…というか赤間神宮の目の前で死んだ安徳天皇を鎮魂する御影堂を1191年に勅命により建てた。1191年は後鳥羽天皇(安徳天皇の弟)の在位。後白河法皇もまだ存命。壇ノ浦の合戦以降に続く天変地異を「祟り」と捉えての供養ではないかと思います。

明治維新があり、阿弥陀寺は廃仏毀釈で無くなった。その時、「天皇社」と名付けられる。明治維新後には天皇の陵墓の比定が行われた。安徳天皇はあちこちに陵墓とされるものがあり、この阿彌陀寺陵が安徳天皇陵として比定され、明治8年(1875年)10月7日、赤間宮に改名。昭和15年(1940年)8月1日、官幣大社に昇格し赤間神宮にさらに改名。戦争中に社殿が消失したので昭和40年(1965年)4月に新社殿が修造された。

よって、宗教施設としての歴史はかなり古いものの、「神社」として歴史は明治8年(1875年)から。
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関係施設

耳なし芳一の芳一堂
江戸時代までは「寺」で、耳なし芳一はこの阿弥陀寺の僧侶だった。盲目で平家物語を弾き語る琵琶法師だった。何から何まで平家つながりですね。
芳一堂は昭和32年に作られたもの。押田政夫氏の作による芳一の木像が安置されています。
七盛塚
平家の左近衛少将有盛・左近衛中将清経・右近衛中将資盛・副将能登守教経・参議修理大夫経盛・大将中納言知盛・参議中納言教盛・伊賀平内左衛門家長・上総五郎兵衛忠光・飛騨三郎左衛門景経・飛騨四郎兵衛景俊・越中次郎兵衛盛継・丹後守侍従忠房・従二位尼時子の供養塔が並んでいます。耳なし芳一の舞台でもあります。
水天門
赤間神宮の門。作られたのは当然ながら明治以降ですが、そこは置いておいて。なぜ「水天」なのかというと、安徳天皇が「龍神」であるとされているからです。安徳天皇は壇ノ浦で入水して死んだ。平家物語では入水するときに「二位の尼」が「海の底には竜宮城というのがあるのです。そこへ参りましょう」と安徳天皇を道連れにします。また、慈円の愚管抄では「安徳天皇はヤマタノオロチの生まれ変わりで、草薙剣を取り戻して海の底に帰った」という見解を示しています。また、安徳天皇は清盛と二位の尼が「厳島神社へ月詣」をした結果、生まれた「龍神の子」という認識があった。
それで安徳天皇=水神・龍神であることから、「水天宮」の神になったことから「水天門」です。
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