血沼池(チヌノイケ)

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血沼池

投稿日時:2017-06-18 23:26:36
漢字・読みチヌノイケ
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血沼池(チヌノイケ)

血沼池(チヌノイケ)は古事記に登場する池の名前。
垂仁天皇の子供の印色入日子命(イニシキノイリヒコ)が作った。
日本書紀では茅渟池(チヌノイケ)と表記される。

日本書紀によると垂仁天皇(11代)の子供の五十瓊敷命(イニシキノミコト)が河内国に作ったとある。おそらく灌漑用だろうと言われるが、そういう記述があるわけではないです。
比定地
血沼池・茅渟池の具体的な場所は分からず、現在にそのような名前の池は無いです。よってハッキリとした比定地はありませんが、泉佐野市の布池(ヌノイケ)・道ノ池(ミチノイケ)が血沼池・茅渟池ではないかと言われています。
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名前で考える

名前について
血沼・茅渟という言葉は地名でもあるので、かなり長期の天皇に跨って登場します。血沼は本来は「茅萱(チガヤ)」が生える湿地帯という意味でしょう。古代では毎年、連作障害を起こさずに生えてくる茅萱には「霊性」を感じていました。その茅萱の霊性がかつて、その場で死んだ誰かの「血」にあったという感覚があったのだと思います。その血沼の主が神武東征では「イツセ命」だったり、宇陀の血原ウダノチハラ)ではエウカシだったのだと思います。
手痛い矢を受けるイツセ命の「血沼海(チヌノウミ)」
懿徳天皇の「血沼之別(チヌノワケ)」
崇神天皇(七)大田々根子命を探し出す(日本書紀)の「茅渟縣(チヌノアガタ)」
允恭天皇(十三)藤原宮での逢瀬と歌、河内の茅渟への引っ越し允恭天皇(十四)毛の先ほども弟姫を妬んでいませんが……允恭天皇(十五)奈能利曾毛と藤原部の「河内の茅渟宮(チヌノミヤ)」…衣通郎姫の宮です。
雄略天皇(四十八)根使主の子孫を皇后と茅渟県主と難波吉士日香々に与えるの茅渟県主(チヌノアガタヌシ)
安閑天皇(六)小墾田屯倉を紗手媛に・桜井屯倉を香々有媛に・難波屯倉を宅媛にの「茅渟山屯倉(チヌヤマノミヤケ)」。
欽明天皇(五十五)茅渟の海の梵音・吉野寺の楠木の仏像の「河内国の泉郡(イズミノコオリ)の茅渟(チヌ)」
崇峻天皇(七)捕鳥部萬の逃亡の「茅渟県(チヌノアガタ)の有真香邑(アリマカムラ)」
皇極天皇(一)出自の「茅渟王(チヌノオオキミ)」
孝徳天皇(五十一)阿倍大臣の死・蘇我日向の讒言の「茅渟道(チヌノミチ)」
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古事記からの引用

垂仁天皇の治世
イニシキノイリヒコ命は血沼池(チヌノイケ)と狭山池日下の高津池を作りました。また鳥取の河上宮で、刀千本をつくり、石上神宮に奉納しました。

垂仁天皇(二十二)高石池・茅渟池・狹城池・迹見池を作る
即位35年秋9月。
五十瓊敷命(イニシキノミコト)を河内国に派遣して高石池(タカシノイケ)と茅渟池(チヌノイケ)を作らせました。冬10月に倭(ヤマト)の狹城池(サキノイケ)と迹見池(トミノイケ)を作りました。その年、諸国に命じてたくさんの池溝(ウナデ=水路)を掘らせました。数800余り。農(ナリワイ)を事業としました。これで百姓に富みが広がり、天下泰平となりました
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