子代

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子代

投稿日時:2017-07-17 09:58:14
漢字・読みコシロ
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概要

子代はハッキリとは性質の分からない部民。
古事記には「子供がいないから子代を定めた」という記述が垂仁天皇の時代に見られることから、功績をいい伝えるための集団ではないか?とも言われています。
有王
ところで、平家物語に俊寛という坊主が登場します。俊寛は鹿ケ谷の謀議に参加して平清盛により喜界島に流刑にされます。ついにはそこで俊寛は死んでしまいます。俊寛には有王(アリオウ)という侍童がいました。ま、坊主版の従者ですね。有王は俊寛の世話をし、さらに俊寛の死後はその物語を京に伝えた、とも言われています。それが平家物語に影響しているとも。
平家物語は鎌倉時代の成立で、古事記は8世紀の成立ですから、間に400年の開きがあるのでなんとも言えませんが、「世話」と「物語を伝える」というのはセットになっていて、従者の仕事としては両方が仕事だったのではないかなと思います。そこにプラス、物語を伝える=供養というのが日本全体にある「当たり前」だったのではないか?ということです。
●ただし平家物語の俊寛は「信仰心の全くない人」という非常に悪い描かれ方をしているけども。
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子代と大化の改新

もう一つ、日本では崇神天皇・垂仁天皇の時代に、どうも「神は子孫が祀るもの」という設定が生まれたようなのです(大国主の祟りと天照大神の鎮座地の変遷など)。となると、天皇という神の子孫を「子供がないから」と放置するわけにはいきません。ちゃんと祀らないと「祟る」からです。大国主が崇神天皇の時代に祟り、疫病で大量に死亡しました。そんなことがあってはいけない。それで設定されたのが「子代」だった。これは祟りを防ぐという意味でもあったが、先祖の供養でもあった。

それが孝徳天皇の時代には…当たり前ですが、子代を残す天皇・親族はネズミ算式に膨れ上がり、子代が財政を圧迫するようになった。そこで子代を廃止した。大化の改新は案外と「財政の立て直し」が目的だったのやもしれませんね。
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引用

古事記からの引用
垂仁天皇の系譜
伊登志和気王(イトシワケ)は子供が居なかったので、子代(ミコシロ)として伊登志部(イトシベ)を定めました。

武烈天皇の治世と後継
小長谷若雀命(オハツセノワカサザキノミコト=武烈天皇)は長谷の列木宮(ナミキノミヤ)に居て8年の間、天下を治めました。
この天皇に太子(ヒツギノミコ=皇太子)はいませんでした。御子代(ミコシロ)として小長谷部(オハツセベ)を定めました。

日本書紀からの引用
孝徳天皇(十五)改新之詔のその1
「その1。
昔の天皇たちの立てた子代(コシロ)の民、ところどころの屯倉(ミヤケ=直轄地)、および、その他に臣・連・伴造・国造・村首(ムラノオビト)の所有する部曲(カキ=豪族の部民)の民、ところどころの田荘(タドコロ=豪族の運営する土地)を止めなさい。

孝徳天皇(三十一)皇子と皇祖大兄の御名入部
現爲明神御八嶋国天皇(アキツミカミトヤシマグニシラススメラミコト)は私めに問うて言いました。
『その諸々の臣・連・伴造・国造の所有する、昔の天皇の時に置いた子代入部(コシロノイリベ=子代は天皇の名を残すための部民で、臣・連・伴造・国造が管理していた)、皇子たちが私有する御名入部(ミナノイリベ=名代・子代と同じ)、皇祖大兄(スメミオヤオオエ=忍坂彦人大兄皇子=皇極天皇と孝徳天皇の祖父で、中大兄皇子の曽祖父)の、御名入部…
彦人大兄(ヒコヒトノオオエ=忍坂彦人大兄皇子)を言います。
及び、その屯倉(ミヤケ=直轄地)を古代のようにして置こうとするか、しないか』
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