ホムチワケ御子は言葉を発さなかった

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ホムチワケ御子は言葉を発さなかった

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原文

かれ、その御子を率て遊びし状は、尾張の相津にある二俣榲(フタマタスギ)を二俣小舟(フタマタオブネ)に作りて、持ち上り来て、倭の市師池(イチシノイケ)・軽池(カルノイケ)に浮かべて、その御子を率て遊びき。然るにこの御子、八拳鬚(ヤツカヒゲ)心前(ムナサキ)に至るまで真事とはず。かれ、今高往(タカユ)く鵠(ククヒ)の音を聞きて、始めてあぎとひしたまひき。

現代文訳

ホムチワケ御子は、尾張の相津の二股に分かれた杉で作った二股の小船を大和の市師池(イチシノイケ)や軽池(カルノイケ)に浮かべて、遊んでいました。

そのホムチワケ御子はヒゲが胸元まで伸びても、言葉を発せませんでした。ある日、白鳥の声を聞いたときです。初めて言葉を口にしたのです。
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解説

言葉について
尾張の相津もよく分からないし、二股杉も二股小船もよく分からない。この小船を奈良の磯城郡にあったと思われる池と、奈良の橿原市大軽町にあったとされる池で遊んだという場面。
ところで相津というと「オオビコとタケヌナカワが会津で出会う」でも登場している。相津は地形を表す珍しくも無い名前なのかもしれない。
ホムチワケのヒゲ
ホムチワケ御子はヒゲが胸元に掛かるようになっても「話せなかった」という表現になっています。「ヒゲが胸元に掛かるまで」という表現は、スサノオがダダをこねるシーン(荒ぶる速須佐之男命は母恋しく)でもあるように、「大人になっても」というよく使われる慣用句なんじゃないかと思います。当時は「ヒゲ」は男の象徴であり、大人の証だったからでしょう。
ヒゲの考察について
出雲風土記にはオオナムチ(=オオクニヌシ)の子供のアジスキタカヒコネ命がホムチワケ御子と同様に「話せない」子だと書かれていて、なおかつ、「ヒゲが長く伸びても話せなかった」という表現となっていることから、ホムチワケはアジスキタカヒコネと同一人物(もしくは同一神)か、ホムチワケ御子の物語が出雲の物語から引用・拝借したものだろうという意見もあります。

個人的コラム

池について
ここまで古事記を訳してきて、急に「池」が登場するようになる。
参考:初国知らしし御真木天皇 垂仁天皇の治世
これまで「海」と中心としていた神話が、現実的な「陸」の物語(神話ではないという意味で)になっている印象。農業には灌漑のために溜池があると良いですからね。
神話が海を中心にしていたのは縄文人・弥生人が海を伝って日本にやってきたからでしょう。そこで稲作を中心にして根付いた――その変化なんじゃないか?と思います。
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