新羅の国王の子 天之日矛

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新羅の国王の子 天之日矛

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原文

また昔、新羅の国王の子ありき。名は天之日矛(アメノヒホコ)といふ。この人参渡り来ぬ。参渡り来ぬる所以は、新羅国に一つの沼あり。名は阿具奴摩(アグヌマ)といふ。この沼の辺に一の賎しき女、昼寝したりき。ここに日の耀き虹の如くその陰上(ホト)を指しき。また一の賎しき夫ありて、その状を異しと思ひて、恒にその女人の行を伺ひき。かれ、この女人、その昼寝せし時より妊身みて、赤玉を生みき。ここにその伺ひし賎しき夫、その玉を乞ひ取りて、恒に裹(ツツ)みて腰に著けたりき。

現代文訳

昔、新羅の王子がいました。
名前は天之日矛(アメノヒホコ)といいました。
このアメノヒホコが日本にやってきた経緯は……

新羅に沼がありました。
沼の名前は阿具奴摩(アグヌマ)といいます。
この沼のそばに身分の低い女が昼寝をしていました。そこに太陽の光が虹のように輝いて、女性器を照らしました。

そこにもう一人、身分の低い男がいました。
男はその様子を見ていて、不思議に思って、女を見ていると、女は昼寝しているときに妊娠して、赤い玉を産みました。

それを見ていた男は、その玉が欲しいと願い出て、受け取り、常に腰に身につけていました。
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解説

アメノヒボコ
朝鮮由来の太陽の神。日本書紀には垂仁天皇の段に描かれているが、古事記では応神天皇の段で描かれている。これはアメノヒボコ神功皇后(オキナガタラシヒメ)の祖先に当たるから――というのが定説です。

アメノヒボコ神功皇后と繋がる理由
神功皇后の母の葛城高額比売(カズラキノタカヌカヒメ)で、このタカヌカヒメがアメノヒボコの子孫とされます。これは日本書紀でアメノヒボコと同一とされるツヌガアラヒトが同じポジションに居て、その子孫がタジマモリ→タカヌカヒメ→神功皇后と繋がるからです。

朝鮮征伐の結果としての
神功皇后の朝鮮征伐で新羅と関係が出来、そこで神話が流入したか、該当する人物が入ってきたか、どっちかでしょう。

個人的コラム

アメノヒボコとは?
分かっていることの中に、「新羅の4代王昔脱解(在位57年ー80年)とその家臣の瓢公は日本人」ということがあります。これは朝鮮の三国史記にあります。

日本が朝鮮征伐を行う以前から日本と朝鮮の間には貿易はありました。それが国と国という関係でなく、民間であったとしても、貿易はありました。

三国志の東夷伝には半島には中国人と日本人も住んでいたと書かれています。主な目的は「鉄鉱石」とありますが、まぁ交易もしっかりしていたようです。朝鮮半島には日本から「珍らしいもの」が来ると書かれていました。

つまり日本と朝鮮半島自体は神功皇后以前から交易はありました。

さてさて、新羅の国王の昔脱解は多婆那国から来た日本人です。多婆那国は倭国の東北千里にあったそうです。
この多婆那国(タバナ)という国名は「但馬」か「丹波」かと言われています。但馬はアメノヒボコが流れ着いて住む事になる土地。そして子孫の「タジマモリ」に繋がるわけです。

アメノヒボコが昔脱解と同一、というのは飛躍です。ただ日本と朝鮮半島の間に人的交流は確かにありました。ただ、神話を見る限り、朝鮮から文化の流入があった、もしくは朝鮮半島の影響があった、というのは考えにくいです(影響が全く無いわけではないがとにかく影響が薄い)。むしろ、なぜこの近距離でこれだけ似てないのか、と思うほどです。

アメノヒボコは朝鮮の神であり、神功皇后の先祖。というだけです。これを持って「朝鮮が日本を支配した」という論調は客観的で無さ過ぎる。なぜアメノヒボコを肯定して神功皇后を架空とするのか?
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