第十一段一書(一)(二)(三)(四)系譜の異伝

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第十一段一書(一)(二)(三)(四)系譜の異伝

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原文

一書曰、先生彦五瀬命、次稻飯命、次三毛入野命、次狹野尊、亦號神日本磐余彦尊。所稱狹野者、是年少時之號也、後撥平天下奄有八洲、故復加號曰神日本磐余彦尊。

一書曰、先生五瀬命、次三毛野命、次稻飯命、次磐余彦尊、亦號神日本磐余彦火火出見尊。

一書曰、先生彦五瀬命、次稻飯命、次神日本磐余彦火火出見尊、次稚三毛野命。

一書曰、先生彦五瀬命、次磐余彦火火出見尊、次彦稻飯命、次三毛入野命。

現代語訳

第十一段一書(一)
ある書によると……
まず彦五瀬命(ヒコイツセミコト)が生まれ、次に稲飯命(イナイイノミコト)が生まれ、次に狹野尊(サノノミコト)…別名・神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)が産まれました。狹野(サノ)というのは少年の頃の名です。後に天下を平定し八洲(ヤシマ=日本)を納めました。それで名を神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)と変えました。

第十一段一書(二)
ある書によると……
まず五瀬命(イツセノミコト)が産まれました。次に三毛野命(ミケイリノミコト)が産まれました。次に稲飯命(イナイイノミコト)が産まれました。次に磐余彦尊(イワレヒコノミコト)…別名神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)が産まれました。

第十一段一書(三)
ある書によると……
まず彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)が産まれました。次に稲飯命(イナイイノミコト)が産まれました。次に神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)が産まれました。次に稚三毛野命(ワカミケノノミコト)が産まれました。
第十一段一書(四)
ある書によると……
まず彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)が産まれました。次に磐余彦火火出見尊(イワレヒコホホデミノミコト)が産まれました。次に
彦稲飯命(ヒコイナイイノミコト)が産まれました。次に三毛入野命(ミケイリノノミコト)が産まれました。
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解説

曖昧な出生
イワレヒコつまり神武天皇は神の血統を引き継ぎつつ、明らかな「人間」なのですが、この出生を見ると「創造された人物」という印象を受けます。
ちなみに、神武天皇の実在に就いては諸説入り乱れていて、実在・創造とどちらもありますが、現在の所は「実在した可能性もあるが、物証は無い」といったところです。まぁ、物証なんてなかなか出てくるものではないので、永遠の謎と成る可能性が高いです。

個人的コラム

個人的には実在説を
わたしは神武天皇は実在の人物だろうと考えています。実在はしたが、その存在自体は曖昧、というのが個人の意見です。

わたしの解釈
神武天皇は当時日本でもっとも栄えていた九州の南部に居を構えていましたが、おそらく20代のときに故郷を捨てて畿内へと向かいました。45歳ではありません。当時はまだ日本の暦は二倍歴だったからです。二倍歴とは一年に二回歳を取るものです。

神武天皇は畿内で国を立ち上げました。それはなかなかの偉業です。簡単な事ではありません。その土地にはナガスネヒコという土着の氏族が居て、それを追い払って国を立ち上げたからです。また、九州南部で弱小氏族だった神武天皇が、大都市九州から離れている……つまりド田舎の畿内とはいえ一国の主になったのです。

しかし、そんなことは当時としては歴史に残るような大事件ではありません。現代ならば「地方に会社を作った」程度のことです。それがなぜ、記紀に残るのか? それはイワレヒコの子孫が「天皇」となったために、遡ってイワレヒコも「神武天皇」となったからです。

つまり神武天皇とは偉人ではあるが、神武天皇自身が大きな結果を出したのではなく、後世で神聖化したので立派には見えるだけです。おそらく記紀成立の時も、ソレ以前の時代であっても、神武天皇の記述は少なかったのだろうと思います。だから神武天皇の記録はとても曖昧なのです。
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