五瀬命の雄叫びと死

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五月丙寅朔癸酉 五瀬命の雄叫びと死

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現代語訳

五月の八日。
イワレビコの軍隊は茅淳(チヌ)の山城(ヤマキ)の水門(ミナト)…別名を山井水門(ヤマノイノミナト)に到着しました。
茅淳は智怒(チヌ)と読みます。

その時、五瀬命(イツセミコト)の矢の傷がとても痛みました。撫劒(ツルギノタカミトリシバリ=剣の柄を握って)して雄叫びしました。
撫劒は都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢(ツルギノタカミトリシバル)と読みます。

「なんてことだ!!!!
男が、敵に傷を負わされて、やり返さずに死んでしまうのか!」
世の人たちは、それからこの(イツセ命が雄叫びした)場所を「雄水門(オノミナト)」と呼ぶようになりました。
軍を進めて紀伊國の竃山(カマヤマ)に到着したとき、五瀬命(イツセミコト)は亡くなってしまいました。なので竈山で葬りました。
古事記の対応箇所
紀伊国の男乃水門で死亡
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原文

五月丙寅朔癸酉、軍至茅淳山城水門。(亦名山井水門。茅淳、此云智怒。)時五瀬命矢瘡痛甚、乃撫劒而雄誥之曰(撫劒、此云都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢)「慨哉、大丈夫慨哉、此云宇黎多棄伽夜被傷於虜手、將不報而死耶。」時人因號其處、曰雄水門。進到于紀伊國竈山、而五瀬命薨于軍、因葬竈山。
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