性善説

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性善説

漢字・読みセイゼンセツ
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概要

まとめ
●性善説は生まれながらに立派な性質を持っている…と言う考え。
●誰もが聖人になる可能性があるという、ポジティブな考え、とも言える。
●誰もが聖人になれる才能があるのに、なれないのは「不道徳」が邪魔しているから。
●能力を発揮するには不道徳を排除しないといけない。
●よって性善説では能力がある人は道徳がある人。
●よって能力が低い人は悪人。
●能力が低いということは人格まで否定される。
●下の人間の不道徳を否定するのは、上の人間の仕事、という側面もある。
●性善説は徳治主義とセットになっている。徳治主義は徳の有る人が国を治めるもの。つまり道徳が権力を持っている。権力者は道徳がある人物がなるもの。ということは権力者は必然、能力が無いとおかしい。よって北朝鮮の将軍様はやたらと「能力」と「道徳」があると主張する。
参考:徳治主義
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性善説は大変です

日本人は性善説をとても気楽に考えています。
人間は生まれながらに「善」という考えは、確かにパッと見るとお気楽で、簡単に人を信じてしまいそうな気がします。「共産主義は性善説を採用しているから、うまく行かなかった。」とか、「性善説は現実的ではない甘い考え」というのがよくある「性善説という言葉」の使い方です。

でもこれが違う。

実は性善説は儒教の、孟子の考え方で、この孟子の考え方を発展させたのが朱子学です。
朱子学は現在の中国と朝鮮半島の思想です。
この性善説ってキツイ、厳しい考え方なんですよね。
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誰もが生まれながらに聖人の才能を持つ

性善説とはなんだ!?
性善説では生まれながらに人間は完璧な性質を持っているとされます。
だから、誰にでも「聖人」になることが出来るという非常に夢のある考えです。
ある意味ではとてもポジティブです。
生まれながらに人生が定められるよりは随分と楽観的で可能性のある思想です。
でも大抵の人は聖人ではありません。俗人です。
どうして俗人なのかというと、それは生まれ持った「善」を邪魔しているものがあるからです。それを排除しないと聖人にはなれません。
では何が邪魔しているのでしょうか??
善を邪魔しているのは不道徳なものです。
例えば勉強をしたくないなぁ。遊びたいなぁ。といった心です。
この不道徳を排除することが「善」を発揮する方法です。

性善説は減点法

問題は「アプローチの方法」にあるのですよ。
つまり性善説は、減点法なんですよね。
だって「善」という「聖人」になれる性質は生まれもって持っているのです。
だから聖人になれず、善が発揮できないのは、その人物に「問題=不道徳=悪」があるからです。
この問題……不道徳な心を批判するのが性善説のアプローチです。

例えば、テストを受けたとしましょう。まぁ100点なんて取れませんよね。そのとき性善説ではどういうアプローチになるのか?
なぜテストで60点なのか?
それはあなたの人間性に問題がある(不道徳)から。

なぜテストで80点なのか?
それはあなたの人間性に問題がある(不道徳)から。

テストで100点取りました。
出来て当然。だって生まれながらに「善」を備えているのだから。

まぁ、これは非常に極端な書き方ですが、ようはそういうことです。
この反対に「性悪説」はこの「悪」を教育によって矯正するものです。
だから、成長を褒めます。
元々は「悪」だからです。
40点から60点になったら努力と成長を誉め称えます。
悪から善へと変わったのですから。これは褒めない訳にはいかないのです。

性善説では、能力と道徳がリンクする

というわけで性善説という土俵では
自分と他人の能力の差は
「人徳(=道徳)の差」です。
善を邪魔しているのが不道徳だからです。
だから、テストの点数が低いということは能力が低いということだけでなく、人間性まで否定されることになります。だから優劣というものにとてもこだわります。日本やその他の国では「能力」と「人間性」は分離されます。「あの人はお金持ちだけど、性格が悪い」とか「顔はかわいいけど、性格は悪い」とか。それが普通です。でも性善説では必然、「勝利者=人徳者」「敗北者=不徳の悪人」です。見た目が悪いということは人間性も悪いと結びつきやすいのです。

よって、他人の人間性を否定するということは自分の能力を証明することにもなります。だから他人の人間性を否定したり、能力を否定することがとても大事な作業になります。また他人の人間性を否定するということは、その人物の問題点を浮かび上がらせ、問題解決を促すという意味もあります。実際にそんな「現実的」意味があるのかは分かりませんが、そういう性質もあります。
北朝鮮の将軍様を例に
分かりやすいのが北の将軍様です。
北の将軍様は歴代、非常に優秀であることがアピールされます。なんでも出来ると主張しています。武器の扱いから、農作物作業の指導までやります。いや、将軍なんだから農業の指導が出来なくたっていいだろうと。なんか変だなぁ、と私たちは思うのです。日本人はあれを独裁だからと思っている人がほとんどですが、関係ありません。儒教の国(朝鮮)では能力は道徳と直結し、道徳が国を治める徳治主義だからしょうがないのです。能力がないところを見せることは、不道徳の証明となり、徳治主義では「支配者にはふさわしくない」となってしまいます。

性善説は苛烈である

私たちは能力というのはバラつきがあるものだと思っています。
個性です。
だから、アレは出来ても、コレは出来ないってのが普通です。
「天は二物を与えず」というようにです。
しかし性善説ではそれは「言い訳」に過ぎません。
アレもコレも出来るように生まれるのが「性善説」だからです。
性善説って辛いです。
だから性善説が悪いってことではないのです。性善説では「可能性」の否定は無いのです。誰にでも可能性があるというのが、性善説なのです。
ただ、それが現実的かどうか?という問題はありますが、そういう救いのある考え方でもあるのです。
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