安寧天皇(二)即位後

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安寧天皇(二)即位後

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原文

元年冬十月丙戌朔丙申、葬神渟名川耳天皇於倭桃花鳥田丘上陵。尊皇后曰皇太后。是年也、太歲癸丑。

二年遷都於片鹽、是謂浮孔宮。

三年春正月戊寅朔壬午、立渟名底仲媛命(亦曰渟名襲媛)爲皇后。一書云、磯城縣主葉江女川津媛。一書云、大間宿禰女糸井媛。先是、后生二皇子、第一曰息石耳命、第二曰大日本彦耜友天皇。一云、生三皇子、第一曰常津彦某兄、第二曰大日本彦耜友天皇、第三曰磯城津彦命。

十一年春正月壬戌朔、立大日本彦耜友尊、爲皇太子也。弟磯城津彦命、是猪使連之始祖也。

卅八年冬十二月庚戌朔乙卯、天皇崩。時年五十七。
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現代語訳

安寧天皇即位の元年冬10月11日。
神渟名川耳天皇(カムヌナカワミミノスメラミコト綏靖天皇)を倭(ヤマト)の桃花鳥田丘(ツキダノオカ=奈良県橿原市四条宇田井ノ坪?)の上の稜(ミササギ=墓)に葬りました。皇后(キサキ=五十鈴依媛)を尊び、皇太后(オオキサキ)としました。
この年は太歲癸丑でした。

即位2年に都を片塩(カタシオ=奈良県大和高田市三倉堂?)に移しました。これを浮孔宮(ウキアナノミヤ)といいます。

即位3年の春1月の5日に渟名底仲媛命(ヌナソコナカツヒメノミコト)を立てて皇后(キサキ)としました。
別名を渟名襲媛(ヌナソヒメ)といいます。

ある書によると磯城縣主葉江(シキノアガタヌシハエ)の娘の川津媛(カワツヒメ)といいます。
またある書によると大間宿禰(オオマノスクネ)の娘の糸井媛(イトイヒメ)といいます。

皇后になる以前に二人の皇子が生まれていました。
一人は息石耳命(オキソミミノミコト)です。
もう一人は大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)です。
ある書によると、三人の皇子が生まれました。一人は常津彦某兄(ツネツヒコイロネ)。二人目は大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)。三人目は磯城津彦命(シキツヒコノミコト)です。

即位して11年の春1月に大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)を立てて、皇太子にしました。
弟の磯城津彦命(シキツヒコノミコト)は猪使連(イノツカイノムラジ)の始祖です。

即位して38年の冬12月の6日。
安寧天皇は崩(カムアガリ=神となって天にあがる…死ぬこと)しました。その時、57歳でした。
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解説

本文では「懿徳天皇安寧天皇の次の天皇)と息石耳命」だったものが、別伝では「懿徳天皇と常津彦と磯城津彦命」になっています。それは別段、問題にないのですが、「別伝」でしか登場しないはずの磯城津彦命の子孫が居るのは、変。

つまりこの物語は伝承、もしくは伝承の割合が多いということです。かといって安寧天皇が実在しないとか、懿徳天皇が実在しないとか、そういうこととはあまり関係ないかと思います。
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