崇神天皇の詔

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崇神天皇(三)崇神天皇の詔(日本書紀)

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現代語訳

崇神天皇即位3年秋9月。磯城(シキ)へと都を遷しました。瑞籬宮(ミズカキノミヤ=奈良県桜井市金屋あたり)といいます。

即位4年冬10月23日。天皇は言いました。
「わたしの皇祖(ミオヤ)や諸天皇(モロモロノスメラミコト)たちが宸極(アマツヒツギ=皇位のこと)についたのは、自身のためであろうわけがない。人神(ヒト)が増えるように整え、天下を治めるためです。奥の深い仕事をして、徳を広めよう。今、私は大運(アマツヒツギ=天から正統な支配権=皇位のこと)を受け、黎元(オオミタカラ)を愛で育もう。こうしてついに皇祖(ミオヤ)の跡(ミアト)に従って、長く終わりの無い祚(アマツヒツギ=天から正統な支配権)を保とう。群卿百僚(マヘツキミタチモモノツカサ=多くの氏族と多くの役人)、彼らの忠貞(タダシキコト=道徳)をつくし、共に天下を安らかにしていこう」
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解説

ここは作文とも
崇神天皇が都を遷した記述の後、天皇が詔を伸べます。
まぁ、ようは「アマテラスから続く皇統が天皇になっているのは、私利私欲じゃないよ。これからも天皇を続けて行くよ。みんなで頑張って行こうね」ってことです。

この文章の肝は「天」から授けられた「支配権」、ということと、国を治めるのに「徳」や「正しさ」が必要だということ、また「みんなで頑張って行こう」という「和」です。
参考:性善説


天から授けられた支配権と、徳が国を治めるというのは「儒教」の考え方です。もちろん、儒教とは関係無しにそういった思想を持ったという可能性は無い訳ではありませんが、この後に疫病によって国民が死んで、その解決の為に大物主の子孫が大物主を祀ることで解決するという、儒教の「祖霊信仰」の影響を考えると、この時期に「儒教が伝わった」、もしくは「政治的に儒教を取り込んだ」のがこの時期、だと思います。

神武天皇には儒教の影響が見られない
神武天皇の時代には儒教の影響は見られず、もっぱら「誓約」や「神」です。つまり、神武天皇の記述は内容が史実でないとしても、記述自体はその時代の物語ということです。
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原文

三年秋九月、遷都於磯城、是謂瑞籬宮。

四年冬十月庚申朔壬午、詔曰「惟我皇祖・諸天皇等、光臨宸極者、豈爲一身乎。蓋所以司牧・人神、經綸天下。故能世闡玄功、時流至德。今朕奉承大運、愛育黎元、何當聿遵皇祖之跡、永保無窮之祚。其群卿百僚、竭爾忠貞、共安天下、不亦可乎。」
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