御肇國天皇と呼ばれました。

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崇神天皇(十九)ハツクニシラス天皇(日本書紀)

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原文

十二年春三月丁丑朔丁亥、詔「朕初承天位、獲保宗廟、明有所蔽、德不能綏。是以、陰陽謬錯、寒暑矢序、疫病多起、百姓蒙災。然今解罪改過、敦禮神祇、亦垂教而緩荒俗、舉兵以討不服。是以、官無廢事、下無逸民、教化流行、衆庶樂業、異俗重譯來、海外既歸化。宜當此時、更校人民、令知長幼之次第、及課役之先後焉。」秋九月甲辰朔己丑、始校人民、更科調役、此謂男之弭調・女之手末調也。是以、天神地祇共和享而風雨順時、百穀用成、家給人足、天下大平矣。故稱謂御肇国天皇

現代語訳

崇神天皇即位12年春3月11日。崇神天皇は詔(ミコトノリ)をしました。
「わたしは初めて天位(アマツヒツギ=天から継いだ位=皇位のこと)を受けて、宗廟(クニイエ=先祖を祀る場所、政治を行う場所)を運営しているが、光が当たらない場所もあるし、徳(イキオイ)も上手くは広がらない。そこで陰陽(フユナツ)は間違って錯乱して、暑さや寒さが亡くなってしまった。疫病が沢山発生して、百姓が災いを負った。しかし、今、罪を祓い、過失を改めて、厚く神祇(アマツカミクニツカミ)を敬った。また教(ノリ)を広めて、荒ぶる俗人を従わせ、兵を挙げて不服(マトロワヌ)を討った。これによって官(オオヤケ=公=政府=朝廷)は廃れることなく、下々に隠れるものは居ない(=国の隅々まで把握している)。教化(オモブクルコト=教え変えること=大和に感化すること)は広がり、衆庶(オオミタカラ=大衆・庶民)は生活を謳歌している。異俗(アタシクニノヒト=異民族)は何度も訳をしてまで、訪れ、海外(ワタノホカ=海外の人)からも帰化(=大和国民になること)する。このとき、ついでに人民(オオミタカラ)の小口調査をして、長幼(コノカミオトト=大人と子供=年齢)を調べて、課役(オオセツカフコト=税金や雑徭)を知らせよう」
と言いました。

秋9月16日? 初めて人民の小口調査をして、人民に調役(税金と雑徭)を科しました。男の弭調(ユハズノミツキ=動物の肉や皮などの狩猟生産物)を、女の手末調(タナスエノミツキ=絹・布などの手工業生産品)です。これで天神地祇(アマツカミクニツカミ)に納めて、風雨を神の心にまかせたので、百穀(モモタナツモノ)がなりました。家には物が溢れて、人が増え、天下は太平になりました。そこで崇神天皇は御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト=初めて治めた天皇)と呼ばれました。
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解説

ハツクニシラススメラミコト
崇神天皇はこのページを読む限り、国民の人口把握をして税金を掛けた「初めての天皇」です。実は神武天皇も「ハツクニシラス天皇」とされます(参考:辛酉年春正月庚辰朔 神武天皇が帝位に日本書紀)。

そのため、どちらが「本当の最初の天皇か?」という議論はずっとありました。どちらが本当の「ハツクニシラス」なのか? いや、これは「どちらも」ということでしょう。

神武は建国の父です。九州からやってきて大和に建国した人。その後、四道将軍を派遣して影響する地域を広げ、また人民を把握して税金を徴収した……つまり政治制度を整えたのが「崇神」です。どちらの「ハツクニシラス」が居なくても、後の天皇は存在出来なかった。だからどちらも「ハツクニシラス」なんでしょう。

以上の事を踏まえると、やはり崇神は中国の政治(儒教と政治システム)を吸収して国を発展させた優秀な政治家だったと考えた方がしっくり来ます。
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