造長と稲置を立て日縦・日横・影面・背面を決める

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成務天皇(三)造長と稲置を立て日縦・日横・影面・背面を決める

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原文

五年秋九月、令諸国、以国郡立造長、縣邑置稻置、並賜楯矛以爲表。則隔山河而分国縣、隨阡陌以定邑里。因以東西爲日縱、南北爲日横、山陽曰影面、山陰曰背面。是以、百姓安居、天下無事焉。

卌八年春三月庚辰朔、立甥足仲彦尊、爲皇太子。

六十年夏六月己巳朔己卯、天皇崩、時年一百七歲。

現代語訳

即位5年。秋9月に諸国に令(ノリゴト)をして、国郡(クニコオリ)に造長(ミヤツコオサ)を立て県邑(アガタムラ)に稲置(イナギ=役職名)を置きました。また盾矛(タテホコ)を与えてその印としました。そして山河を境にして国県(クニアガタ)を分け、阡陌(タタサノミチヨコサノミチ=南北の道と東西の道)に従って、邑里(ムラ)を定めました。それで東西を日縦(ヒノタタシ)とし、南北を日横(ヒヨコ)としました。山の陽(ミナミ)を影面(カゲトモ)といいます。山の陰(キタ)を背面(ソトモ)といいます。これで百姓(オオミタカラ)は平安に住むことができるようになり、天下は問題なくなりました。

即位48年春3月1日。
甥の足仲彦尊(タラシナカツヒコノミコト仲哀天皇)を立てて皇太子としました。

即位60年夏6月11日。天皇は崩御しました。その時、年齢は107歳でした。
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解説

前の「成務天皇(二)当国の幹了しい者をその国郡の首長に」の続きとなっています。東西を日縦(ヒタテ)としたのは、太陽が昇る方向の東に向いた時、太陽はその人の真上を縦に通るからです。一方、日横(ヒヨコ)は、東を向くと、南北は横になることからです。

また山の南面を「影面」というのは、南面に人が立ったときに影ができる面で、北面はその反対側という意味で「背面」になります。ちなみに、この概念が中国地方の「山陽道」「山陰道」という言葉になっていきます。

おそらく「基準」を設けたということが成務天皇の時代の成果だったのでしょう。文章を読むと、国を分けただけでなく、田畑をカッチリと分配したんじゃないかと思うのです。でも、まーそこまで出来るかなぁ……ただ、南側と北側では収穫高が違うんだから税が違うとか、そういうルール作りがあったんじゃないかと思っています。
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