敏達天皇(日本書紀)
投稿:2015年09月20日 更新:2015年09月20日スポンサードリンク
要約
即位1年4月 敏達天皇即位。百済大井に宮殿を作る。即位1年5月 高麗の使者が相楽の館に居ると聞いて敏達天皇が悲しむ。高麗の国書を臣下に読ませるが読めず、王辰爾が読んだ。王辰爾は宮仕えに。
即位1年6月 高麗の大使が以前、騙されて税を収めたことを副使に責任を問うと、副使に殺された。
即位2年5月 高麗の使者が越の海岸で船が壊れた。吉備海部直難波に使者を送らせた。
即位2年7月 難波と高麗の使者が反逆に備えていたが、難波が強くなって高麗の使者を海に投げ入れて殺した。
即位2年8月 難波は殺害を隠して、報告するが、嘘がバレて故郷に返さなかった。
即位3年5月 高麗が越の海岸に停泊。
即位3年7月 高麗の使者が、難波が殺害し帰国できなかった件を問う。天皇が難波を断罪する。
即位3年10月 蘇我馬子を吉備に派遣して白猪屯倉と田部を増やす。王辰爾の弟の牛を津史に。
即位3年11月 新羅が税を献上した。
即位4年1月 敏達天皇は息長真手王の娘の広姫を皇后に。
即位4年2月 蘇我馬子が帰る。百済が税を献上。敏達天皇が「任那の再建」をせっつく。
即位4年4月 新羅・百済・任那に使者を派遣。
即位4年6月 新羅が使者を派遣し、税を献上。
即位4年 訳語田に幸玉宮を作る。
即位4年11月 広姫が死亡。
即位5年3月 豊御食炊屋姫尊(=のちの推古天皇)を皇后に。
即位6年2月 日祀部・私部を設置。
即位6年5月 大別王と小黒吉士を派遣して百済の宰相に。
即位6年11月 百済は帰国する大別王にお経や人材を添えた。
即位7年3月 菟道皇女が伊勢の斎宮に。しかし池辺皇子に犯され、解任に。
即位8年10月 新羅が使者を派遣して、税を献上し、仏像を送る。
即位9年6月 新羅は使者を派遣して、税を献上するが、日本が拒絶。
即位10年閏2月 蝦夷の反逆。天皇が誅殺を詔すると、三諸岳で従属を誓う。
即位11年冬10月 新羅が使者を派遣して、税を献上するが、日本が拒絶。
即位12年7月 任那の再建を詔し、達率日羅に任せようとする。
即位12年10月 百済が人材の排出を嫌い、達率日羅を出さなかった。結局、人手を出す。日羅は難波で德爾たちにより暗殺される。德爾は捕らえられ、日羅の親族によって殺される。
即位13年2月 難波吉士木蓮子を新羅に使者をして派遣。任那へ。
即位13年9月 百済から来た鹿深臣が弥勒菩薩の石像を、佐伯連が仏像を持ち帰る。
即位13年 蘇我馬子がこれらの仏像を祀り、部下の娘の善信尼・禅藏尼・惠善尼を出家させる。仏教の始まり。
即位14年2月 蘇我馬子が塔を建て、仏舎利を収める。蘇我馬子が病気に。占いによると、蘇我稲目の時に祀った仏が祟っているとした(稲目の仏像は海に捨てられた)。疫病が流行して国民が死んだ。
即位14年3月 物部守屋と中臣勝海大夫が蘇我氏の仏教信仰を批判。蘇我馬子が建てた塔を焼き払う。尼たちに鞭打ちを行う。天皇は任那再建のために坂田耳子王を派遣したが、天皇と物部守屋は病気になり、派遣は中止。疫病で死ぬものが増えた。原因は仏像を焼いたからではないか?と噂される。
即位14年6月 蘇我馬子は疫病を鎮めるためには仏教が必要と訴える。馬子は尼を取り戻し、寺を建てた。
即位14年8月 敏達天皇が崩御。天皇の殯宮で物部守屋と蘇我馬子が罵り合う。
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