日羅の進退と出自

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敏達天皇(十八)日羅の進退と出自

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原文

於是、百濟国主、怖畏天朝不敢違勅、奉遣以日羅・恩率・德爾・余怒・奇奴知・參官・柁師德率次干德・水手等若干人。日羅等、行到吉備兒嶋屯倉。朝庭遣大伴糠手子連而慰勞焉、復遣大夫等於難波館使訪日羅。是時、日羅被甲乘馬到門底下、乃進廳前、進退跪拜、歎恨而曰「於檜隈宮御㝢天皇之世、我君大伴金村大連、奉爲国家使於海表。火葦北国造刑部靫部阿利斯登之子・臣達率日羅、聞天皇召、恐畏來朝。」乃解其甲、奉於天皇。乃營館於阿斗桑市、使住日羅、供給隨欲。

現代語訳

百済国の主(ニリム)は天朝(ミカド)に恐れ畏まり、勅(ミコトノリ)に背きませんでした。それで奉り派遣したのが日羅(ニチラ)・恩率(オンソチ)・德爾(トクニ)・余怒(ヨヌ)・奇奴知(ガヌチ)・参官(サンカン)・柁師德率次干德(カドトリトクソチシカントク)・水手(カコ)たちと若干の人です。日羅たちは吉備児嶋屯倉(キビノコジマノミヤケ)に到着しました。朝廷は大伴糠手子連(オオトモノアラテコノムラジ)を派遣して、慰労しました。大夫(マヘツキミ=部下)たちを難波の館(ムロツミ)に派遣して、日羅のものとへと訪れました。この時、日羅は甲(ヨロイ)を着て、馬に乗って、門(ミカド=建物の門=難波館の門?)の底下(モト)に到着しました。すぐに庁(マツリゴトドノ=政治を行うところ)の前に進みました。進退(フルマイ=座ったり立ったり)し跪いて拝み、嘆き恨んで言いました。
「檜隈宮御㝢天皇(ヒノクマノミヤニアメノシタシラシメススメラミコト=宣化天皇)の時代に、我が君の大伴金村大連(オオトモノカネムラノオオムラジ)は国家のために、海表(ワタノホカ=海外=ここでは朝鮮のこと)に使者として行き、火葦北国造刑部靫部阿利斯登(ヒノアシキタノクニノミヤツコオサカベノユケイアリシト)の子である、わたしめ、達率日羅(ダソチニチラ)は天皇が招聘したと聞いて、恐れ畏まり、朝廷にやって来ました」
すぐにその甲(ヨロイ)を解き、天皇に献上しました。館(ムロツミ)を阿斗桑市(アトノクワノイチ=河内国渋川郡跡部=現在の大阪府八尾市植松?=もしくは大和国城下郡阿刀村=現在の奈良県磯城郡田原本町坂手)で運営して、日羅をそこに居らせて、願いのままに物を供給しました。
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解説

火葦北国造刑部靫部阿利斯登
日羅が大伴氏を「我が君」と呼んだのは大伴氏がそもそも宮廷を警護する氏族で、「靫部」を統括していたからでしょう。刑部はそもそもは允恭天皇の皇后の忍坂大中姫の名代のこと。

ちなみに名前の「火」は「肥の国」のこと。つまり日羅は百済から呼び寄せられたといっても、出自は日本です。ということは火葦北国造刑部靫部阿利斯登は日本人。となると「アリシト」というのは「日本の名前」なのでしょうか。

そう言えば、「アリシト」という名前は加羅王の名前としても登場しています。別伝では任那王の己能末多干岐(コノマタカンキ)が加羅王の阿利斯等と同一人物ではないかという記述もあります。


うーん。
ま、結局、よく分かりません。もっと遡ると「ツヌガアラシト」という神功皇后の祖先もあります。アラシト・アリシトという名前が、朝鮮人にありがちな名前なのか。


個人的には大伴金村の時代に朝鮮半島に出向いて行って、そこで日韓の混血が進んだんじゃないか?というのが個人的な考えですね。
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