加羅と新羅の政略結婚と決別

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継体天皇(三十二)加羅と新羅の政略結婚と決別

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原文

別遣錄史、果賜扶余。由是、加羅、結儻新羅、生怨日本。加羅王、娶新羅王女、遂有兒息。新羅、初送女時、幷遣百人爲女從、受而散置諸懸令着新羅衣冠。阿利斯等、嗔其變服、遣使徵還。新羅、大羞、翻欲還女曰「前承汝聘、吾便許婚。今既若斯、請、還王女。」加羅己富利知伽(未詳報云)「配合夫婦、安得更離。亦有息兒、棄之何往。」遂於所經、拔刀伽・古跛・布那牟羅三城、亦拔北境五城。

現代語訳

別に録史(フビト=文書・記録をとる役人)を派遣して、結局百済に多沙津を与えました。それで加羅は新羅と儻(トモガラ=仲間)を結んで、日本に恨みを抱きました。加羅王は新羅王の娘を娶って息子が生まれました。新羅は最初に娘を送るときに100人を娘の従者として派遣しました。諸々の県(アガタ)にその従者が散って、新羅の衣冠(キモノ)を着ていました(=加羅が新羅の影響下にという意味)。
阿利斯等(アリシト)はその服が変わったことに憤り、使者を派遣して、(従者を)帰国させました。新羅はそれで恥に思い、面目を失い、娘を返そうと思って言いました。
「前に、お前が呼んだから、わたしは結婚を許したのだ。今、このようになったのならば、王の娘を返せ」
加羅の己富利知伽(コオリチカ)は答えて言いました。
己富利知伽のことはよく分かりません

「夫婦が配合(=結婚)して、どうして離すことができるだろうか。また息子もいる。捨ててしまって、どこに行くというのか?」
刀伽(トカ)・古跛(コヘ)・布那牟羅(フナムラ)の3つの城を取りました。北の境の5つの城を取りました。
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解説

加羅と新羅
加羅は任那と同義とされますが、加羅は朝鮮側からの名前で、任那は日本側からの名前みたいな差があるんじゃないかと思います。日本とJapanの違いじゃないかなぁと。
結婚観
日本は本来は通い婚です。男が女の家に通って、そこで子供ができる。だから子供は女の家で育てられます。だから日本では天皇の皇后・妃に入り、子が生まれると皇后・妃の家が出世します。一方、儒教では女が家に嫁ぐことになります。女はあくまで「男の家に入る」ものです。

この風習で考えると、加羅の「従者を100人連れて行って、加羅を新羅の文化で浸食する」という行動は、「儒教的で無い」。まぁ、政治的に加羅を取り込んでやろうという意図があったのでしょうから、気にすることは無いかもいしれませんが。

まぁどっちにしても新羅と加羅はかなり文化風習が違ったのは間違いないです。
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