長門から東を朕は治め、筑紫から西はお前が治めろ

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継体天皇(二十八)長門から東を朕は治め、筑紫から西はお前が治めろ

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原文

詔曰「良將之軍也、施恩推惠、恕己治人。攻如河決、戰如風發。」重詔曰「大將、民之司命。社稷存亡於是乎在。勗哉、恭行天罰。」天皇親操斧鉞、授大連曰「長門以東朕制之、筑紫以西汝制之。專行賞罰、勿煩頻奏。」

現代語訳

継体天皇は詔(ミコトノリ)して言いました。
「優れた良い将軍は恩(メグミ=慈しみ)を施して、恵(ウツクシビ=情)を大事にして、己を律して、人を治めるものだ。攻めるときは河が割けるよう。戦えば、風が吹くように」
重ねて詔しました。
「大将は民の命を握っている。社稷(クニイエ=国家)の存亡はここにある。努めよ。つつしみ、天罰を行え」
天皇は自ら斧鉞(マサカリ)を取って、大連に授けて言いました。
「長門(ナガト)から東を朕は治めよう。筑紫から西はお前が治めろ。賞罰を任せよう。いちいち、報告する必要はない」
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解説

いまだに引用から
この詔の文章も中国の「芸文類聚(ゲイモンルイジュウ)」から引用で、地名と人名を変えただけです。ということは、ここでの「長門から東は朕が、筑紫から西はおまえのもの」というのは史実ではない…と考えたほうが自然なのか。それともそういう史実があったから、この文章を引用したのか?

なんの理由もなく引用をするわけもなく、引用するだけの理由というのがあったはずです。まして、同じ引用文である前のページであるような「物部の発言なのに大伴氏を褒め称える」という矛盾があるということは、矛盾を押しても書かなくちゃいけない理由があった。それほどの理由とはどこか? でしょうね。
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